あかつき

 

 

日記を終えて洗い物をして寝る体勢になって睦言タイムを過ぎてまだ日が変わるまでに1時間以上あった。早番とはいえ7時50分に起きれば間に合うし、よく寝ている。しかし、それでも日中がやたらと眠い。なるほど、これが春眠か。暁を覚えないのはもったいないからしないけども。

 

出勤で外に出ると完全に春で、これはもしやとなってぎりぎりなのに少し遠回りのルートを選択して、田んぼのピンクの絨毯(蓮華草)の様子を見に行ってみた。特に変化はない。そういえば、先週か先々週に満月さんがスーパーの道中に僕に見せたかったと、紫の絨毯スポットを紹介してくれた。綺麗だった。自然の日常的移ろいを眺めるのは楽しい。

 

 

午前中の仕事。

 

特に変化はないが、何か微妙な違和感がある。おそらく仕事って最初は非日常だけど、そのうち生活になってよほどのことがなければ変化に気付かず、時間が過ぎるのを待つ「退屈」の領域になるのだろうな。退屈自体は高尚な観念だから特に問題はないと思う。問題はこれをしていれば良いのでしょうとなること。違和感は、優先順位が微妙に落とされていて、後進の成長と取りこぼさない方向に不文の役割を振られているのかなというところ。知らんけど。うとうとしながら左手の文字練習が捗る。

 

 

休憩時間の下りのエレベータ。これをやっておけば良いのでしょうという気遣いを僕は嫌うのだなというシーンがあった。5人ほど乗っていて地上階に付いた時、たまたま立ち位置がボタンの近くだったから開のボタンを押したのだが、何故か反対側のボタンに近くに居た人も遅れて開を押す。2人が押したら余計に扉が開いて皆が出易くなるならともかく、開を押す人は1人で必要十分だし、後から押すことに何の意味も無い。特に気にすることでもないのは分かるが、そんなてきとーな気遣いは余剰と不足の両義性を持っている。

 

具体的な状況判断とか関係性を度外視したその場でこれをするのがマナーであるという意味での気遣いはなんとなく良いように見受けられるけれど、元気がない人の話も聞かずに元気が出せと言ってしまったり、苦痛を訴えることが甘えと言ってしまったりするような、中身のない無配慮の気遣いになる。某有名バンドの「ひとりごと」という曲の歌詞に優しさは人と人の間にあるというフレーズがあるが、気遣いだって、したいからするものでもしなければいけないからするものではない。そんなてきとーなら余計なことはしない方がマシだという説。

 

僕は別に人を知識の多寡とか外見とか事務情報で判断しないが、思考停止の気遣いをする人は駄目かもしれない。親切心なのかもしれないけど、親切心がどんな状況でも誰にとっても優しいものとは限らないというところに思考が至らない感じ。

 

そりゃあ失敗も起こることだが、定型文的な行為をして自分は悪くないと思うより、具体的な失敗を積んだ方が未来に活きるような。もっとこういうのをやってくればよかった。まぁこれからいくらでもできるか。

 

 

お弁当。

 

日常の中でいつも違うことができるのは余裕がある証拠。今週暖かくなってきて仕事場の近くの公園がごみごみしている。そこで近所の公園の位置を頭の中で検索して、現実的に移動可能な徒歩6分くらいの公園に行くことにした。ちょっと嫌な思い出があるところなのだが、人が少なくて静かな穴場だった。ゆっくりお弁当を味わう。お米ってこんなに美味しくて良かったのだっけという味覚。世界のどんなことでも愛して良いとか言ってしまうと宗教チックだが、信仰すべきは神様ではなく自己だから、誰かに共有させたい世界でもない。

 

それぞれ自分が自分を信仰すべき宗教ってきっと概念として成立しないだろうし。

でも、おそらくこれからの世界ってそういうことになるよな。神様時代だって別に神様が責任取ってくれる訳でもなかったろうが、信仰によって心の安心、安泰は得られただろうし。

 

これからは心の安泰を自分の中だけで精製しないといけなくて、いや、もともと人類史ずっとそうだったような気もする。

 

 

午後のお仕事。

 

特にないような、あるような。有能な新人さんは先生とは席が離れているから案件の質問以外はしないのだが、案件以上に成長している。地頭良いのだろうな。うってかわって細々と聞きまくる新人さんはポイントがズレていて、案件が長引く。たぶん後者の新人さんの方が真面目なのだが、情報量過多でどこが本質なのかを検討している暇がないのだろうなという印象。次々新しい案件がやってくるし、それをいちいち吸収しようとするから胃もたれしている。高校3年時の勉強時間はトップクラスなのに成績が全然伸びない室長のことを思い出した。個人的にこの人、とても好きだったなぁ。今、何しているのだろう。

 

そういう意味で言えば、自分のキャパをここまでとして後は外付けの生き字引としての先生に知識面は任すというお姫様先輩も有能とは言えそう。このやり方失敗のリスクが減らせるし。

 

たしかに自給労働で全体の仕事を減らすためにリスクを負うのは採算が取れない。僕の人生劇場は採算度外視だから問題ないけども。

 

 

帰ってきた後の日常描写は省略。

 

 

 

やれやれ。

 

村上春樹さんの新作のタイトルに「壁」が入っていて、やっぱりこの人の人格の根っこはそこなのだろうなと思ったところからの発想なのか知らないが、人の本質は一生変わらないのだろうなという思索に至る。

 

行為とか事象に焦点を当てれば、過去の自分はいまとは別物と捉えられるけど、その時の心とか精神に注目すると、中学生の頃の自分といまの自分の区別はない。失敗したから過去の自分は駄目だと更新しようしたところで、そんなの表層の意識の部分だけで、労わってなければたぶん老後に逆襲されるだろうな。

 

どういう文脈だったのかは定かではないが、中学校の大きな時計の下にベランダ状のスペースがあって、僕はベンチでうとうとしているシーン。陽キャ勢が雑談をしていて完全に寝ることはできなくて、その中の1人がどうせ寝てないだろうといじってきた。たしかに寝ていないのだが、参加する感じでもないから、今起きた感じを装う。その時といまの僕は全然変わっていない。

 

なんだかどうでも良い描写を書いたから、ここからやや高尚な偽札疑惑があった僕の財布の中にあった千円札から、社会における信用という価値から、ブロックチェーンを前提とした次の社会システムになったら、信用が当たり前になって価値が無くなるなという話を書けなくなった。まぁ良いか。

 

いや、社会のシステム論も楽しいが、個人的には文学とか美学とか哲学の方が気になるところではある。目移りしても、移る前のことも残す。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。