そんざい
あぶく銭を放流してきた。
僕は本質的に物を保持できない人なのかもしれない。お風呂読書の中の「東京奇譚集」のゲイの調律師の「かたちあるものと、かたちのないもののどちらかを選ばなくちゃいけないとしたら、かたちのないものの方を選ぶ」の話がなんとなく分かりみ。楽しさだって言葉だって人そのものだってかたちがない。
東京奇譚集って、シンクロニシティの話なのかな。神隠しの話もなんだか思わせぶり。パンケーキが美味しそう。この小説のテーマはまさに「かたちのないもの」なのか。ハナレイ・ベイだってサメに片足を齧られた息子の亡霊の話だし。
人ってなんだろうという詩的な哲学的な思索。
詩の本によると、詩は言葉の表現ではなく経験の表現だという話があり、たしかにそうだよな。誰かと共有されるためだけの言葉のこねくり回しは美味しくない。満月さんはそういう詩人を毛嫌いしている。たしかに、谷川俊太郎さんとかはあくまで自己の経験を描くことによって伝播させる感じ。
人が物体であるというのはあまりに当たり前。たしかに物体としての人の大事さは分かる。ただ、ここを大事にするのは法規制とかの社会の話であって、個人的な感覚の話ではない。
個人的な人は、個人的な経験の集合体であって物として掴めるものでもない。肉体は物質的な自然のままに経年していくけど、精神的な人は時を行きつきつつしながら揺れているし。自分が物であるという人には決して言えないこと、すなわち、普通に語れるような話ではない。
今朝、満月さんに対してやらかした起き抜けに、表現の自由の話をした。愛知県のトリエンナーレのこと。
あんまり知らないのだが、国家が認める(補助金をあてる)とふさわしい表現と認定されるという議論が起こっていたとか。この話を聞いていて思ったのは、なんというか目くじらを立てる領域がおかしいなって。もちろん表現の自由があるから、どういう見解を投げるのも任意だが、ほんとに表現のことを考えている人が言うとは思えない。
表現がふさわしいっていう考え方自体が、インストールされている観念だし、検閲は最高級に駄目な所作なのに、何か理由があれば許されると思っている。理由があっても駄目だというのが社会が学習してきた現時点のはずだが。
もちろん実害がある表現は規制されても良い。ただ、害を精神的な嫌悪感まで拡げると、貴方の表現キモチワルイですで規制できることになって、正義だと思って表現している人も当然規制対象に含まれる。
ここで想ったのは、宗教法人に対する優遇は誰も何も言わないのは、宗教が高尚だというやや距離を置いた感覚なのだろうなという感じ。おそらく距離が離れているから嫌悪感を抱く対象にもならない。自分が税金として払っている現物が自分に有利になるかというか、当人にとって有用であるかどうかを問題とするのは、社会契約論から言えば土台がずれている。統治行為に対して文句を言うのは勝手だが、国民は出納帳にリアルタイムに文句を言える立場にはない。その用途を決めた政治家を更迭する一票を投じられるだけ。
ほんとうに正しい政治があるとすれば、とっくに見つかっている気がする。
なんの話だっけ。
個人的に、自分の文章が自己との癒着がない。たしかに経験の表現ではあるが、その経験は言葉で表現しきれないし、別に好かれたい訳でもない。あぁ読んでくれる人の文章は勝手に気になるから読みますけれど、読まれているお返しではなく、僕の文章を読むような人格は美味しいのだろうなと切り離して。
でも、表現って難しい。僕も今の現実的な生活圏の職場で文章を毎日書いているとか滅裂に本を読んでいるとか言えない。ここでは普通ではないから。ついでに、存在として確知されないと生きていけないところで生きていないから、アピールする必要もない。
この普通さの概念についても書きたいところだが、今日はここまでか。
他人を気にする人をほど、相手の普通の枠から離れないようにしてしまう。
はい、ここまで。
おやすみなさい。