いきしに

 

 

不老不死になったとしても世界に飽きない。雲の流れを眺めていたら10年くらい経っていたとなりそう。そんな気分。

 

常軌を逸している考えだが、それは100年くらいで物体的に退場するという枠があるからであって、うん百年前の日本人の平均値からすれば今の平均人生は不老不死の領域かもしれない。でも平均の枠とは別に、次の瞬間に退場になったとしても恨みつらみは残さない。

 

なんだか人間の常識のタブーに踏み込みそうだが、礼儀は弁えている(つもり)だから問題ないか。

 

 

諸々の本と、見える世界が思索を導いてくれる。

 

 

本日は晴天也。仕事が無ければ散歩するのにちょうど良過ぎる。肌寒いくらいの気温で、何キロか歩いているうちに自家発熱でバランスが取れそう。何キロか歩くことを散歩と呼んで良いのかは不明だが。

 

まぁ、太陽パワーで日向であれば十分熱をいただける。昼前の休憩で、大型連休に近所の公園で遊ぶ人ってそんなに居ないのではないかと思ったが、普通に盛況だった。イマドキの小学生も虫取りをするらしい。保護者同伴。僕も虫だらけの森で育ったから、微笑ましく眺める。ちょうちょがとか、はちとか、世界をきちんと見ている時分が子供の頃。

 

そうして、この時期なのに黒のネックウォーマーみたいなもので顔を隠してやってきた不審な男性。何をするのかと思ったら、ハーブ(おそらくミントかな)をちょろっと採取してさっさと去って行った。それってタブーなのではと思いつつ、そこまでしてハーブを採取したい人って居るのか、錯覚かもしれない。よくわからない。まぁ、植物自体は、採取されることを是とはしているはず。意志というより存在として。

 

仕事は残業になったのだが、特に時間がもったいないという感じもなかった。こういうはあまりよろしくないとは思う。枠内で楽しんでしまうから、それがなければもっと楽しむ時間を守らない。何をしていても楽しめるのは良いが、この残業の作業があまりに単純過ぎてこれは誰がやっても同じであって、自分が勿体ない気がしてくる。そんなところで生きる自分で楽しんいでて良いのかと。

 

あと、聞こえてくる雑談が退場のニュースの事ばかり。ニュース見ていないから知らないのだが、北海道辺りで難波線と、キャンプ場で行方不明事件のこと。好き勝手なことが言えるのが表現の自由だが、それを話題にしたところで、何を得られるのか。

 

ふとした憲法談義だが、表現の自由とちょっと違うニュアンスで、報道の自由という観念がある。表現は思想の発信だが、報道は事実の流布という概念。もともとは国家は情報を絞る方が統治しやすいから規制をかけるほうに向くため、報道機関がその統制を破るという意味で価値があった。情報を拡げることで国民の見識が拡がる。

 

ただ、この2つのニュース、何か見識が拡がることはあるのだろうか。いや、ないない。これについて話し合ったとしても何か教訓がある訳でもなく、あるとすれば、単に共通の話題が提供されること。他人の死って境界の外だから、きっとエンターテインメントなのだろうな。それを話しあったところで悼むことにはならない。いや、なるとしている人も居るのかも。

 

生と死の境界は、人が統計的に死ににくくなったから隔たりがより広がっている。自分はとりあえず死んでいないから、他者の死を異界というか、見えるものとしての他者として捉えているというか。

 

ここで、本を持ってきて。

 

最新の読んでいる小説では、人がほとんど死なない世界で寿命も300年くらいになっている。機械的に人格もバーチャルにインストールできるし、再生医療も発達していて、よほどの自己に遭ってもなんとかなるという感じ。疑似的な不老不死の世界だが、世界観はあまり変わっていない。

 

もう1つがハイデガーさんの時間の概念からの文化人類学の筋。ある部族では近未来を示す意識(言葉)がないとのこと。近代の人も言葉としてそれが在るだけで、無限の時間の枠を考える器はないと思う。時間でこれだったら、生死もしかるべく。

 

ここらへんからタブーの話。

 

人の生に無条件で価値を置いているのが現代社会。とりあえず生き延びれば何か良いことがあるみたいな他人事観というか。気付いてしまう人はこの矛盾にあくせくしてしまっていると思う。

 

僕の素朴な人生劇場感を書く。そもそも生まれてきたことが当たりか外れかは決定できない。死の先を人が知らない以上比べられないし。たしかに、人の存在はエントロピー上低いものだがら、それに価値を置くという価値観はありうる。

 

無条件に人に生命の保続に価値があるという観念は、その社会が頭数が無いと保続できないからフィクションとして創設したものではないかと穿っている。これはこれで良いとも思う。あくまで傾向的には。

 

命は別に物体に宿っているとは思っていない立場。退場した父親とかお祖父ちゃんも僕の世界には存在しているし。存在的な人と物体的な人はそんなに連動していない。

 

これを踏まえて、退場した、してしまった人に対して、彼岸から物体を保続していれば良かったのにって他人事的に悼むのはなんとも無責任なこと。救えないのにただ生きれば良いっておかしい。刑法学ではかなり悲惨な人が登場するのだが、その状況で生きればなんとか世界が上向くなんてことはふつーに言えない。統計的には世界では秒換算で餓死している人が居るらしいし、そんなの全部悼んでもられないし、喪に服すこともできない。

 

言葉は無責任にもなり得るから、人の動きは言葉ではないとしている。

現実の人が退場したことをミステリー小説みたいに捉えられるなかなか。

 

 

僕がニュースを見ないのは、世界がニュースできていないことを分かってしまったからで、かといって人の存在を感知していない訳でもない。僕の存在は何やら都合の良さとして感知される模様。

 

そういえば、人の感覚も歴史のホメオスタシスという話があった。無知の塔の本の中で何冊か同時だから特定はできない。感覚がそうであるということは他の誰かとも一致しているということ。これが現実感。

 

ぼくはこういう意味で、特に誰かと現実感を共有しなくても良い。美学の本が言うところでは気分とのこと。気分も磨いていいと許容してくれる。

 

気分は別に客観的なものではない。客観的なものという観念がある人がそれを世界とする。

 

世界はバランス。

はい、おやすみなさい。

 

良い○○を。