満腹は固形物以外で

 

 

 

明日は健康診断で22時以降は絶食とのことなので、8時くらいに食べ終えた。体調を整えるためではなく単に食べたかったうどんに明日のお弁当のメインのねぎと人参の卵炒め残りをぶっかけた。これも食べたかったのだが、きゅうりのゆかり浅漬け。最近食べてないと思ったら値段が高いからだった。高いと言ってもコンビニおにぎりより安いから問題ない。もう1の副菜はすこしだけ残ったレンチン煮物。

 

絶食10時間は割と日常的だから特に堪えない。満腹状態より空腹状態の方が調子良さげだし。健康診断もなんとなく楽しみではある。特に後ろめたい生活をしていない(どの口が言う)し体脂肪率とかどうなっているのかとか。

 

出勤中ご飯を作る時間について考える。来週から最遅番だから、夜はすぐにお風呂読書して日記を書いて、料理は副菜のみ作り、朝早めに起きてメインを作ろうかって。メインの残りを当日の夜に使うこともできる。こういうのって、自分がきちんと早めに寝て早めに起きることができるという算段がないと構想できない。

 

 

 

お仕事。

 

なんだかすごく楽しんでいる。職場全体が苦手としているお客さんに当たったのだが、特に何事もなく終えた。ヒヤヒヤしながらすると緊張感があって良いのかもしれないが、緊張感でパフォーマンスが上がるとも思えないし。その仕事がつまらないという自負がある職場は緊張感が保たれているという仮説が浮かぶ。

 

 

 

ともあれ。

そうそうに日記的日記から迷子して。

 

「暇と退屈の倫理学」で、楽しみと思考はセットであるという説。対象を楽しんでいるうちに対象に対する思考が生まれてより楽しくなるみたいな繋がり。楽しむというのはニュアンスとして微妙かもしれない「味わう」とか「嗜む」とかの方が近そう。カントさんが言うところの趣味とか。ここだって、緊張ではなく弛緩していないと起こらない。

 

法学界隈についてその領分から離れたところで考えることができるようになったのも、味わうことができてきたからだと思われる。なんだかいま具体的なことはぱっと思い浮かばなくなったが。これが素面の壁か。

 

 

あれ、もう眠いな。

 

仕事中ぼーっと春のことを考えていたら、春はあけぼのようよう白くなりゆく、という枕草子の冒頭が流れて来た。夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。移ろいを味わっているなぁ。

 

 

やれやれ。

 

そういえば、人格の起源であり最終目標であるところの個々人の本質。ふと、僕は偏らずにバランスを取るというところに重みを付けて来たのだろうなと。ただこれって、なんというか、端から見ると分かりにくいというか捉えどころがなさげ。人って自他に対して性格を言葉で定義づけることが好きで、昔は良く考え過ぎだとか頭でっかちだとか言われていた。たしかに行動が伴わない思考はバランスが悪い。

 

もちろん行動の為にしか思考しないのも偏っている。僕がずっと腑に落ちなかったのが「動機」という概念。何かしたいと考えて、その考えが原因になって行動が起こるというモデルは分かり易いけど、そうだとしたら、もっと世の中分かり易くなっていないかという素朴な疑問。そもそも言語化されていた疑問ではないが、脳科学の一般書とか、刑法学の故意概念とか、民法学の不法行為における過失概念とかを味わっていくうちに、動機という概念も自然の摂理ではなく、1つの行動モデルでしかないのだろうな把握できた。

 

だからと言って、何か社会的に雰囲気的に語られる動機論がおかしいとかではない。そういう風に把握される事象もきっとある。でもこれって結果から逆算されて語られるものだから、反省的に洞察するのであれば、どういった意志だったかより、その当時どういった認識を持っていたのかの方が建設的だし、訓練もしやすいような。上手いたとえが思いつかないけども。

 

説明が付きやすい動機があった方が周りとして安心というのは、行動モデルが近い方が予測しやすいというところにあるのかもしれないけど、別に現実生活圏で利害がない人に対しても及ぶから、世界そのもののモデルの安定への衝動なのかな。知らんけど。

 

短いけれど眠いのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。