不足と満足

 

 

少し早く起きるつもりがぎりぎりまで寝た。アイロンがけの時間とまったりタイムを残して起きたから別に寝坊でない。起きられたら本とかなんとか読もうかなというだけ。こういうところでいちいち自分を非難してもしょうがない。なんというか寝たとしても特に意識が途切れて居ない感じ。こういう人生劇場って良き。

 

運試しはなんとなく不調。現実で行ったら大負けしていた気がする。

そういえば、投資系の人が眺めにやってくるのって、運の話をしているからかもしれないなと思ったお弁当タイム。投資って運というより技術とか統計的な感じがあるのだがどうなのだろう。いや、まずこの領域で遊べるほどの資金がないという。笑

 

 

お仕事。やはり2日他人と話さないという心地良さは、仕事であんまり人と話したがってないという微差がある。別になるべく早く終わらせたいみたいな空気は出さないし、特に変なことを言う訳でもないが、何をやっているのだろうという感じはある。仕事だ。

 

どうでも良い領域では雑談を振りたくてうずうずするのだが、これも留める。

例えば同期の立ち上がり方に違和感。腰大丈夫かって聞きたい。ただ、聞いたところで何にもならないし、なんなら心配アピールにしかならないのに発言する意味あるのかって。送別会の時には振っても良いかもしれない。いや、言葉が相手を慰撫することもあるというのは分かるのだが、それをしてなんか変なことになっても今や困る。

 

新人の席替えがあって、先生に聞きたがりの人は先生から離れた僕の対面に移動。先生にあんまり聞かない有能な新人さんは先生にいつでも聞ける位置に移動したが、ちゃんと礼儀がある。自分が見た情報を口頭で漏らさず伝えるって無理だから、その為に文章の案件を記録する必要がある訳で、文章を持っていかずに聞きに行くなら、それこそ口頭で全部伝えるくらい認識していないといけない。ニュアンスで通じるみたいなのはプライベートの人間関係なら普通にやっても良いけど、仕事でそれをするのは違う。

 

調べたり考えたりすることを先生に聞くのもどうかと思うが、この辺が障る時点でちょっと調子が悪い気もする。先生もキャパオーバーにならない限り、結構そういうのも含めて楽しんで仕事してそうだから問題なさげなのに、先生を搾取するような存在が気になるという。でも僕が入った頃より先生はきちんと言い返しているような気がしないでもない。

 

 

はい。次へ。

 

 

お昼時、ふと、自分は脂質をあんまり摂ってないのではという思い付き。

動物肉の脂肪が元気な時でないと食べられない。調べたところオリーブオイルとかごま油とか卵で問題なさそうだから問題なかった。別に油ぎった肉を定期的に食べなくても良いらしい。

 

ご飯と言えば、本日の夕食のメインは湯豆腐。

ポン酢で食す湯豆腐は美味い。ネギとえのきとしめじも加えて顆粒昆布出汁でぐつぐつ。なんで湯豆腐が好きなのかというと、おそらくむかーし故父親が、夜食で作っていたのを少し食べさせてもらった記憶があるからなのだろうな。父親は男が料理を作る時代の人ではなかったから、たぶん水で茹でただけだったはず。でも美味しかった。

 

ここから少し心理学。

父親は農家でガタイが良くて身長も180㎝くらいあって隆々としていたのだが、全然高圧的ではなかった。高圧的なのは母の方。こういう家族で生きてきたからかどうか知らないけど、人が通るべき父親を越えたいみたいな衝動がとんとない。

 

今時そういう心理学は時代遅れなのかもな。

 

たしかに、どの世代も同じ時代に生きているのであれば、親って身近な越えるべき目標になりうるし、エディプスコンプレックスとかもきっとそう。ただ、時代がめくるめく昨今のいまだと、親を越えたところでいまの時代の自分が安泰になる訳でもないし、家族は違う意味での繋がりになっているのかも。

 

親ガチャという言葉もあるらしいが、そんなことよりいまの自分をどうにかした方が良い気がする。環境が個別なのは当たり前だろうに。

 

僕も自分の精神の抑圧をこういうコンプレックスの発現なのかと思ったが、今の自分の精神性にそこまで最初の生活環境は影響していない。そもそも自分の存在の悪しきところを他責にするのが変だし、悪しきというのも一定の視角からの見方でしかない。

 

世の中、責任という概念がどうも好きそうだが、これも一種の宗教みたいな話。

例えば事故とかで誰かを物理的に傷つけたときに起こる賠償も責任を媒介にしなくても良い気がする。補償とか保険の話に収束するのに。もっとややこしいのが親の責任論。親子がユニットだという外からの視点ってどれだけ濁っているのだろうな(言い過ぎ)。夫婦もユニットであるという視界もそう。

 

個人の尊重の本質って、類型的に人を捉えない、自分も類型に囚われないというところにありそうだけど、現代でもまだ早いのか?

 

人間の本質は思考をカットしたいのも分かるが、思考しなくても良いところを考えてしまうというのもまた本質。前者は「暇と退屈の倫理学」で、後者は「パンセ」

 

やれやれ。

 

あとは早足。

 

太宰治さんの人間不信の根っこが嫁と子供にあるという情報はとてもやるせない。精神病院に収監されて鎮静剤としての麻薬を強制的に摂取させられた精神を狂人として扱われたらしい。家族の誰も見舞いに来てくれない。行動と言葉が矛盾していると何を信じたら分からなくなる。もちろんこの当時の結婚って家同士の問題だから、嫁側の家の確執もあったと思うが、本当に太宰さんを愛していたのであれば、無関係に見舞いに行く行動があって良い。子供を作るくらいの接触はあったのに、何もしなかったんかいって。

 

いや、時代的に何もできなかったという説もある。

女性には奔放な振る舞いが赦されなかったとか。

 

なんだか、太宰さんの精神を狂人ではなく個人として認識できる人が1人でも居たら世界線が違ったのではなかろうかと思う次第。個人的には特に狂人ではないという認識なのだが、色々当てられそうな精神性でもありそう。

 

 

という妄想交じりでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。