うそ

 

 

雨粒の集積でアスファルトにできた小川に流れる桜の花びらを見て、頬が緩む。

 

 

移動しなかった世界線の夢を見た。何処で生きても楽しめるのが、いまの方がより伸び伸びしていることを確認するために光景として現われたという解釈。僕の伸び伸びは良い想いをするとかではなく、認識とか見解の拡がりが赦されるかどうかな感じ。

 

 

昨日は日記を書き終わったあと、満月さんと睦言を交わしつつ議論しながら消費税のお勉強。今朝満月さんが見つけてくれた判決文を攫う。おかげで遅れそうになったが、小走りしながらピンクの絨毯ルートにした。あと数日でほとんどピンクになりそう。

 

消費税の話の更新。

 

消費の定義はされていなくても、課税要件と効果は条文にある模様。課税物件の譲渡や役務の提供に対して課税されるものとのこと。たしかに消費の概念に踏み込んだら哲学的になる(性的消費とか)から、消費のうち、課税される取引類型を既定した方が合理的。不明確な規定なのかというと微妙なところではあるが、一般通常人だったら分かるというのが裁判所の判断。

 

憲法訴訟において、表現の自由とか刑法界隈は不明確な条文だと国民が委縮してしまうからよろしくない。明らかに適用対象になっていた人でも不明確さを認められたら法律(条文

)自体が無効になって適用する条文が無くなるという意味で、主張する意味はある。

 

租税法だって、何が課税の対象になるかが不明確だったら行動が委縮するとは思うが、デリケートさのレベルが違うのかもしれない。

 

消費税のシステムの中の仕入控除の話をしていた。これは別に不合理ではない。仕入れの段階で消費者として負担した分は仕入れ元が納税しているからその分を納付するようになると消費者としての負担と事業者としての納税が二重になってしまうのを避けることがある。

 

ただ、この話の印象として、間に事業者が入れば入るほど工賃とは別に消費税も加算されて最終的な販売価格は釣り上がっていくのだろうなというところがまず1つ。なんというか、あんまり誰も得していないような。

 

というのも、この連なりの中には、免税業者が含まれるから。免税業者って要は一般消費者とそれほど収益が変わらない一般人みたいな法人(ざっくり)。要は消費税を消費者として負担している以上の額面は納付することを強いない。個人事業主の方が一般就業者より税金関係が面倒だというイメージ。確定申告とか。

 

インボイス制度は、免税事業者で在り続けるためには煩わしさが増えるというイメージなのだが、合っているのだろうか。いや合っていなければ修正するから問題ない。

 

このシステムを俯瞰すると、国庫に税収として入るのは国民が最終的に負担する全額ではないのは確か。課税事業者より免税事業者の方が遥かに多いだろうし。この制度の目的は中小企業、個人事業主の保護であって、デフレにならないように経済を活性化するということであれば腑に落ちる。実際、対価の一部だという解釈だし、直接国庫に入るようにはできていない。

 

ただ、消費税導入の背景とか、どこかの教授が消費税の目的とかを語っている情報を眺めると、偏り過ぎていた所得税法人税の負担を広く薄く分配するようにして「社会福祉」としての予算に当てるとのことだった。あとは逆進性とか諸々の専門用語もあったが省略。

 

消費税に関する法律が改正されて、社会福祉費にあてるみたいな条文も追加されたみたいだが、そもそもこの目的だったら、全額国庫に入るように預り金として設定した方が合理的に違いない。ちぐはぐしているとか解釈できない。課税事業者が納税した分もほんとに社会福祉に当てられているのかも定かではない。政府は嘘付いてないか?

 

消費税界隈が気になってしまったから、もっと色々穿って行くのだろうな。

穿ったところで在るべき社会みたいな理想像はないから宗教家とか啓発者にはならないが。システムは運用されている時点である程度正しい。

 

 

やれやれ。

 

仕事はそこそこ。無茶苦茶忙しい時には出てこなかった、余生感が出てきて、あんまり勝手に処理するもいかんせんという気分。仕事上の経験は知識として積み上がるものだから、続けるのであればこなした方が良い。

 

僕の仕事の仕方も徐々に変わってきているという体感。

たぶん情報として残っているという意味では知識量は多いと思うけども、その情報を真理だと思わなくなっている。事象自体から外れているけども類推できるものはないかとか、ほんとうに相手が正しさを求めるのかとか、自分が持ち拠れる世界観から判断しなくなっている。もともと固定的な世界観は無かった模様。

 

先生が腰を壊したことに対する雑談が流れてくる。最近のジム通いが祟ったのではないか、年を考えて無理しないようにしないとって。たしかに経年というか、一般論として年齢がどうこうという社会観は蔓延っている。個人的には先生の腰は全く別の要因なのではという印象だが、自分の社会に引き直して人を判断している。

 

いや、別に問題ないのだが個人的にはあんまり参加したくない雑談だなと思っただけ。

 

この文脈で、素朴な嫌悪って、社会的な学習であって清潔だとか清廉とかが内側で異界は野蛮で不潔だという感覚なのだろうなと思った。職場の人達を見ていても、正しいのは何なのかというところに固執している。変な話、正しくなかったら自分が異界になるという恐怖なのかも。たしかに、幼少期の教室では変なことを言えないみたいな恐怖感はなくもなかった。なんだか正しいことがあった気がする。

 

でも、正しさを蓄積したことが今だとすると、未來への判断が滅茶苦茶窮屈になる。別に当人としてそれは特に疑義を挟む余地はないが、次世代に継承するという意味ではなんとも不合理。領域を狭めていって仕事に限定すればあることだが、全人生で他人に先輩面するのは違うよなって。

 

僕は清濁併せて蓄積してきているから、一般論として誰かにアドバイスできる立場にない。なんなら一緒にお勉強しようかくらいになる。経年は権威にはならないという規範は一生もの。

 

ここまでにしとこー

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。