美味し

 

 

 

19:30から。

 

お休みの日だし、夜は長いので早めに終わらせる感じで。

 

 

午前中。

 

お仕事はちょこっと。予想はしていたし、店長も予測はしていたキャンセル。僕が至らなかったというか、もっとレールをきちんと敷いて準備万端にした上で、最終判断をお客様に委ねるところだった。スキル不足であり想像力不足。

 

僕は足りなきゃ足せば良いという立場だから、がっかりは特にない。料理も味が薄ければ足して当初の料理のアレンジできるけれど、最初から濃すぎる方は薄めるために別の料理にする必要がある。

 

12時過ぎまで満月さんが会議。だもんで、過去問タイム。

 

やっぱり民法が一番面白いのだが、これはそこに興味があるということではなく、単に直感が出てくるくらいには知れてきているということ。あくまでなんとなくであって、直感が裏切られることは多々ある。

 

宅建業法も、問題解いていて、この条文あえて規定する必要あるのかというのが出てきている。これが直感ないし空気感。不動産の売買の勧誘である目的を秘して街頭アンケートとか言って個人宅に潜りこむのはアウトだろうという常識感覚ということではない。

 

そうではなくて、宅建業法は宅建業の取引に入る一般の人を専門家の食い物にされないように保護するという目的から作られているから、ここからすればそんなの当たり前よねという感じ。もちろん宅建業って慈善事業ではないから利益を得られる最低限の規定もあるし、こことバランスを図るという意味合いもあり。

 

業者は自分にとって慈善事業であるべきという考え方の権化が、「お客様は神様」みたいな観念だなとふと思った。ここはこの後の文章にも後をひく。

 

 

その後は満月さんがキャロットケーキを作っておやつ。

ラニュー糖無しで作って、はちみつの甘味が優しい。

 

晩御飯は唐揚げの2種類のタレ。ガリタルタルソースと、トマトとアスパラのポン酢仕立てソース。どちらも絶品。

 

料理スキル、どちらも向上している感じ。

 

日本語の助詞ってどうにかならんのかな。「は」でも「が」でも、他以外って感じがあって使いにくい。もっと中性的な「is」みたいなのがあれば良いのだが、いや、これはどうでも良い。

 

 

ちょっとアイスとか諸々補充してきた。

 

 

夕方辺りからも法律脳。お勉強方面ではなく趣味方面へ。

 

この前書いていた映画の助成金と出演者の逮捕問題の最高裁判所の判決文が公開されていたものだから、ワクワクしながら読んだ。

 

最高裁、きちんと常識的に判断してくれた。

やんわり専門的な所でいうと、目的外ではなくて、目的の中でも行政が麻薬を助長しているというイメージは公益を判断とする材料として想定しがたいという手法。

 

法律判断は直感を排するというのが前提にあるから、法律の条文やら解釈を前提とした判断基準を作った上で、その枠内で判断しないといけない。これは縛りでありつつ、割と理性にはかなっている。行政判断を全部覆せるような権力を司法につけるのは国家の設計としてありえないし、この助成金の判決でも、独立行政法人の長の裁量は認めている。

 

認めた上で、その判断が、目的とか基準とかからして不合理かどうかを裁判しているだけ。

結論から見れば一般の人の常識に適合する感じになるだけかもしれないが、ここに着地するのは職人芸であると思う。

 

助成金のシステムと似たようで、もっとメカニカルなシステムである同性婚憲法判断の裁判の話。

 

個人的にはこういうのって個人がそれを不具合に想っているからこういう裁判が起きているというより、何か世相を読んだ団体が個人を煽って裁判沙汰にしているだけであって、同性パートナーの人が異性間と同じように結婚を認めて欲しいと思っている訳ではないという気がする。

 

まぁ、憲法って風潮を反映しているから、風潮が変ったら解釈も変わるのが当たり前。

法の下の平等観も、解釈によって幾様にも変り得る。

 

で、僕は別に同性婚もどうでも良いというか、結婚という概念自体がどうでも良いから、好きにしたら良いという立場であることは前提として。

 

色々読んで印象として思ったのは、「国家も慈善事業ではない」ということ。

 

参与している人にとっては、制度の選択肢をいっぱい創れば良いじゃないと思うだろうし、多様性の風潮にも合っている。ただ、その制度を創ったコストによって、自分の生活がやや窮屈になるよってなったら、許容できないと思う。現制度でも生活保護を許容していない人はまぁまぁ多そう。

 

税として徴収された金銭が何に使われるかということを感知できないし操作できないのが「社会契約」のコンセプトであって、関与できるのが選挙だけとなっているのに、税金の用途が気にされる。

 

これを踏まえて同性婚の話。

 

裁判所は、憲法違反としている例が多いみたいだが、損害賠償を認めていない。これ面白くて、法律が憲法に違反していることと、憲法に違反しながら新たな法制を創っていない憲法違反は別問題であって、法制を創るラグがあるからある程度の期間を経てないと国家賠償法上の賠償責任は生じない。たしかに、法制が無いことの不利益は個人に賠償されるべきではなく、法制を創るコストに回した方が良いような気がする。

 

で、色々判決文に書かれているのだが、だいたいは社会の価値観が変って来たよねという論証が多かった。もともとの結婚制度って家督とかの家の話だったから、今から考えればあってはいない。

 

ただ、この制度って、家を度外視しても、個人間の結合として流用できるものだと思う。扶養概念とか配偶者という呼称とか、個人同士の結合ではない感じではあるのだが、これは単なる世間体なだけろうし。

 

で、同性婚を異性婚制度と同等の制度にできるのかという話。

普通に考えると、異性婚制度は家制度の名残もありつつ、子供を創って社会の構成員にななるという可能性があるという前提がある。実際に子供ができない不能があったとしても、養子を取ることもできるし、個人間の結合ではなく親になるという思想的背景があるだろうし。

 

子供を創らない異性婚は、その制度のレールにたまたま入れたという幸運でもありうるかも。

 

ここで、国家は慈善事業ではないという話が出てくる。

国家は国家としての威信というか他の国ではないという独自性に存在意義がある。この流れでいうと、国家が文化財を保護するのは慈善事業ではなく、自国の独自性を保全すると考えた方がすっきりする。

 

どういうパートナーシップ制度を構築するかというのも、国家の独自性のお話だと考えれば、不自由な国を動かすより、自由な国に移った方が個人にとっては合理的なような。

 

いまの時代って別に国籍を移動することは自由だし、国をどうにかするよりは簡単なような。資金が無いということも在り得るだろうけど、全部100点な世界なんてどこにもないような。

 

つまり、個人的には同性婚を制度として認めることは勝手にすれば良いけども、この日本に制度として構築するのは、諸々コストがかかるようなという感じ。あと20年もすれば変わるかもしれないけども、そうなってくると日本みは無くなるだろうなと。

 

僕が言う日本みは、パートナー関係を別に外から認められる必要がないというのがもともとだったのではという感じ。

 

そう、何の見解も示さないのが、この文章の醍醐味ということで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。