言葉にできない

 

 

退場しそうになる夢から醒めると曇り空。気分は全然悪くない。ただ、木曜日と思ったら水曜日だった。曜日自体は無色だがここに社会を当て込むと意味が生じる。まぁ雇用形態によりけりだが。満月さんは基本平日しか休みがないから水曜も木曜もシフトによって色合いが違うだろう。

 

感傷めいた僕としては、まだ1日多く働けて、なかなか良い意味であり、1日向こうに行くのが長引くという意味では悪い意味であり、相殺してただの固有な1日になる。

 

 

お昼前に少し雨が降って、お弁当タイムには止んでいた。早番のシフトは休憩室が大変。ここ3年ほど働いた観察で、休憩室から全く出ない、ずっと職場に居る人が少なからず見受けられるのだが、窮屈にはならないのだろうか。僕は基本弁当だがなるべく職場で生活したくないし、職場の人と一緒にご飯を食べる感じでもない(嫌いな訳でもない)から、3つの公園をローテーションして食べている。昨日は穴場公園で食べたが、だいたいの人が目新しい公園に集中していたのか、遊んでいる人は皆無。いつもここで食べているのだろうなというがちらほらしただけだった。

 

なんだか若い人が多いなと思ったら、新入社員の研修の時期なのだな。量産型(悪い意味ではない、くたびれていないという意味)フレッシュビジネスマン(ウーマン)達。

 

ワンチャン、雨に晒されていないゾーンがあるのではないかと目新しい公園に行った。少し雨が降っただけで、遊びに出ている子供達も、寛ごうとする大人達もほとんどいない。屋根があるベンチのスペースに行くと1人座ってグミを食べている猛者が居た。ぼっちなのか1人が好きなのかは外からは見えない。寛いでいる感じだから印象としては後者寄り。

 

少し離れていつまた降り出すか分からない雨を気にしながらお弁当を食べた。造られた快適な空間という意味では職場の休憩室も公園も同じだが、空間の広さが違う。ユートピア的な自然が本来の自然なのかはともかく、自然もある。

 

 

どうでも良いが、職場の人の髪色が鮮やかになっているような。僕も最後の一週間染めて行こうかな。実際するかどうかは別としてできるかどうかどうかの方が大事。仕事ができれば髪色は問題にならないという風潮になっていくのだろうか、この職場。なかなか面白そう。

 

 

やれやれ。

 

なんだか歯切れが悪いような。

 

1Q84のストックを読み干してしまった。明日新刊発売ということで書かれた記事を読む。筆者は「ねじまき鳥クロニクル」が入口だったらしい。僕はたしか「ノルウェイの森」だった。当時僕も童貞だった気がするが、ノルウェイの森の性描写が読めないということはなかったような。孤独感が馴染んだからたぶん独り身だった気がする。個人的に村上作品の性描写の多さって、それによって人と人は特に繋がっていないという表現だと解釈しているから自身に経験が無くても特になんともなかった。1Q84だとそういう行為より繋いだ手の存在の方が重いし、僕もこっち寄り。

 

ノルウェイの森は大学生の話。大学生と言えば、姉が「大学生になれば恋人なんて当たり前にできる」と発言していたことを思い出した。これ恋愛市場のヒエラルキー圧倒的上位者からの発現だよな。女性だからと括ると雑い。姉も妹もなかなかとっかえひっかえだった。きょうだいはそういう世界に居ないから、恋愛における姉とか妹の存在は知らない。姉はいつか3人で飲んだ時に「自分はややこしい人物だ」と自称していたから、外面のはきはきさの内側にややこしくぐずる人格があって、そこを受け入れて欲しいみたいなところがあるのかもしれない。

 

知らんけど。

 

村上作品の主人公は男で特に美男子ではなさそうなのにやたらとモテる。作者さんの顔を見てややびっくりしてしまったのは秘密だが、きちんと軸があって、ポーズではなく相手の存在を認証できれば、特に好かれることはなくても嫌われることもない気がする。

 

いや、生理的嫌悪感の中で遺伝子が拒否しているのはアレルギーと同じようにどうしようもない。ただ、嫌悪って社会的価値観の中でも生じるから、ここの嫌悪だったらどうにかなりそう。僕個人の物語。村上作品とあんまり負けていない気がしないでもない(言い過ぎ)だが、もうお腹いっぱい。

 

相対評価を突き詰めて磨いて行ったところで、より良い相対的存在が自他に現れるし、自分で在ることを突き詰めた方が良いというのが人間市場論。これだと合わせてくれる相手が最上になりそうだが、そんなの人間関係ではないから合わせる気がないなら相手は道具でしかないよなという印象。

 

いや、別にそういう生き方をしている人を否定しているという訳でもないのであしからず。

 

現代の最先端の社会の「いま」って、原則があって例外も受け入れようみたいな道徳観ではなくて、そもそもの原則が崩壊しつつあるよなって。同じような原則を共有できる層がクラスタになってコミュニティを作っているようなイメージ。noteクラスタも然り。

 

もちろん、相手に通じるかどうかが言葉の価値ではある。かといって、僕は自分の文章にスキが付くかどうかをモチベーションにしていないから、だったら無価値の文章を垂れ流しているようなことになる。たしかに交感を交換するというのが文章界のコミュニティな僕に居場所はないと思う。

 

ほんとうに言葉が交感を交換するだけだったら言葉なんて無くてよさそうという立場だから、書き続けて勝手に読まれて問題ないということになっている。文章に内在する意味が書き手の意図通りに伝わる文章って、ビジネスの報告文めいている。報告文を書いたことは無いが、書くとなったらできると思う。意味がどうすればきちんと伝わるかという話であって、自分が伝わるということでもないし。

 

何の話だろうなという感じだが、人の存在って言葉で報告し切れるようなものではないから、あんまり整い過ぎている報告文みたいな文章が読めなくなりつつあるなぁという感じ。逆に全く報告する気がないというのも然り。

 

言葉の呪縛というか言霊みたいなことは最初の環境にあって、言葉が容易く覆されるみたいなことだったから、自分の言葉もそういう風に遣うものだというのがあった。そこから解き放たれるまでに、幾星霜。言葉を覆すことは問題ない。関係でそれを覆すのも、今はその言葉を当てるのが正しかったけども、今当てる言葉は変わったというだけであって、言葉に罪はない。

 

受け取った言葉と発する言葉に不公正があるのではないかという疑義が起こったが、本日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。