放置

 

 

昨日でお米がなくなったから、あと1週間と1日はお弁当なし。冷蔵庫の中身を空にしていかねばならない。炭水化物はお昼ご飯で補給しよう。割と発展している街だから、外食処はいっぱいある。明日はスーパーでお弁当を買って公園で食べるか。

 

(外食は胃がバグっていないときだと結構もたれるのだが)

 

 

さておき。

 

朝いち運試しが調子良い。これはイケると思って書庫を探ったら1Q84 の読んでなかった巻がしれっと見つかる。ほんとうは昨日読み終わった続きが読みたかったのだが、これも乙。新刊は満月さんが予約して本日手に入れたみたいだから、そのうち読むことになるし。

 

お昼は穴場の公園に行ったが、遊んでいる子供は居なくてもお弁当を食べている人は意外と多い。集まって食べるのが楽しいのか栄養補給が嬉しいのか。

 

 

そうして少し仕事の話。

帰って来て少し調子がよろしくなかった。これの理由は肌感の話。人が悪いということは無く、単なる相性の話。女性上司とお姫様先輩のセットはエナジードレインだわと。

 

僕は結構言霊に影響される質で、別に馬鹿にされていなくても、冗談の中に人のことを貶める言葉が入っているのが合わない。対僕ではまぁまぁ多い。お姫様先輩はそうでもないのだが、女性上司は結構多い。弄られるのは別に良いのだが、そこに否定が入ってくるとどうもよろしくない。人を否定せずに弄るというのも難しい話だが、そういう風にしか人と関われないのかという次第。

 

いや、内心がどうかは分からない。ただ僕がそういう語用しかない人とは関われないなと思うだけ。無駄にエネルギーが消費されてしまう。良い言葉を遣えば良いとかそういう道徳論とも違うテクスト論。解釈の仕様が他にない、というような。

 

聞きたくもないのに聞こえて来たのだが、給料が15日締めだから明日で最後かーみたいな雑談。いや、給料の締めは15日でも契約期間は末だから僕の意志で居座っている訳ではないですよーって。そんなこと言わなくてもと思わなくもない。もしかしたら別の話かもしれない。だとすれば単なる自意識過剰。

 

全てが自分のことを言っているように聞こえる病的な耳は取っ払ったからそんなに外れていない気がする。

 

 

この話は別に特定の誰かの話ではなく、そういう語用で言葉を遣っていると世界がそういう風になるようなというだけ。あと10日もすれば顔を合わすことはない人のことを想っているのではなく言葉の遣い方が世界の見え方になるだろうなというだけ。なるべく話したくないという僕の気持ちも分かった。

 

もちろん衝突を避けるだけで生きられる訳でもないから、こういう層の人への対策も必要なのだろうなって。理論武装で本気を出せばそんなに負ける気もしないが、理論で語っていると思っている人ってほとんど感情と癒着した理だから解きほぐせるものでもない。

 

理屈やら論理の根っこが反証可能な科学だったら議論してより良い方向に向かうけど、根っこが感情やら経験則の固有性だったら、いくら話し合ったところで枝葉末節をどう妥協するかということしかしか問題にならない。

 

いやはや、言葉ってそういう意味で重い。

 

僕の言葉に対するスタンスはなかなか微妙ではある。日記を書き続けているけども、言葉に変換された自分が自分そのものと癒着している感じはない。重い言葉って言葉そのものではなく、言葉の背景が前提で、言葉は添え物のような。

 

もちろん僕も聖人ではないから、この人頭悪いなって想うことが道端でままある。ただ、この時想っているのは、僕の標準で世界を見ている天動説ではなくて、それができるのであればもうちょっと考えられるのではという地動説の話で、僕にとって都合が悪いことをしているという意味での頭の悪さではない。だから、この悪態は、厳密には当人が当人を無駄遣いしていないかという観測でしかない。例えば自動車の運転って諸々な雑多な状況を処理しながらやっているのに、他人に譲ることができないのはおかしいとか。信号には問題なく譲るのに。

 

致し方ないの基準も面白い。雨は降り続けば我慢ができなくってくるし、人についてはもっと閾値が低いかもしれない。仕方なさの理由という言語が問題になるというのはよく分かるが、肌感としてはここで問題になっているのは言語化できる理由ではないような気がする。

 

そういえば、この職場で初めて連絡先を交換した年下上司からのショートメッセージがやってきた。文面のテクスト解釈だとどうやら送別会は最終日では調整ができなかったらしい。でもなんとか調整しようとしてくれている感じだけで僕は結構嬉しい。僕はこういう全然実生活とは関係ない意志で暖を取る。仕事が忙しいなか、辞めて仕事上の駒にならない人物を送れるって、仕事外の余白がないと起こらない。

 

実際送別会がなかったところで、とくにがっかりはない。もう2回がっかりしたし、次を期待するのも疲れる。かといって、がっかりさせる人が悪いとも想わない。口だけではないし、幹事はスケジュール調整大変。これってスケジュール調整ではなく、参加意志が問題だと思われる。僕の送別会に誰が来たいと思っているかという僕の求心力だから、あんまりうまくいっていないのは僕がそんなに好かれていなかっただけ。自虐ではなくて、義務的に参加するような人は欲していないから、やって来てくれた人がいれば、よくここに来てくれましたって歓迎する。

 

僕は独立した言葉自体という媒体は好きなのだが、内心の言葉と外界への言葉の乖離という世界観はあんまりスキではない。言えないことを書くのは文学であって、日常ではないし、とかいって、僕も自分の言葉を日常生活で語る場がないからここで書いている訳で。いや別に、日記の言語状況を完全に受け入れてくれる人を求めている訳でもない。実生活では書かれた言葉より当然生身の方が大事。

 

こういう感覚を統一的に言語で描写するのは不可能だとしている。

だから言語界で好き勝手振る舞えている。

 

現実界でも、てきとーに他人に合わせて相対的に誰かを評価する言葉を使わないようにしないとな。自分にとって不都合という世界は素朴な僕の世界にはない。相手から僕が不都合だとなった時に初めて天邪鬼が発動していた。子供期で言われたところの宿題しなさいみたいな。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。