どうでもよくても痛いものは痛い

 

 

 

良質な脂肪分だったらしく豚バラ胃もたれはなかった。化石物の炊飯器で予約した水量が少なかったらしくちょっと固い。よく頑張ってくれたものだ。あと10日ちょいでお別れ。冷蔵庫もアイロン大学に入るときの新生活セットで買ってもらった物だから普通の家電で考えられないくらいの期間現役で居てくれた。ここで突然退場されてもありがとうしかない。

 

ドライヤーはそこまでもいっていないのに、もはや風邪を起こさない。お米も切れるが、こちらは次に送ってくれる住所の変更届を出さないといけない。

 

 

調子が悪いのかと言う解釈だったが、このざわめきって変化に対する不安ではなく、さよならする諸々に対する感傷なのか。見方によっては薄情めいている。ただ、実は情緒豊かなのかもしれない。昨日書いていた僕らしさの部分と繋がっているのか。大事にしていなくても愛着を持って良いという因果の歪みは、いろいろ入れ替え可能。

 

どうでも良いが、大昔結婚式のスピーチを頼まれてやったことがある。人前で話すの苦手だから原稿用紙を読むだけになった気がするが、友人の親御さんはいたく感動してくれたような(ちなみにもう離婚している、それも良い)。調べながら原稿を書いていたのだが、結婚式に使ってはいけない言葉のタブーが多くてびっくりしたのを想い出した。たしか「色々」も駄目だったような。

 

別にそれが良くないという意味ではない。儀式ってルールがゲームめいている。不謹慎だし僕もさぞ泣いた父親の葬儀の時に、棺の釘を打つのは左手でないといけないとか骨を運ぶのは箸同士でないといけないとか、泣きながら冷静になんでだという頭になったのも思い出す。

 

行為(儀式)によって想いが社会的に儀礼として認証されるって、なかなかよくできたシステム。なんでもかんでも自由で良いとなると振る舞いが大変だし、振る舞いの意味が集合的無意識として把握されないから、これはこれであって良いというのが僕の立場。原則がないと例外について考えることもできない。

 

 

さておき。

 

出勤ルートは最短。ピンクの絨毯を愛でるのも好きだが、最短ルートもあんまり人が居ないから好き。今週早番だから大通りルートはマイペースで歩きにくい。情報量が増えても問題ないけども、自転車の動きの予測が大変になる。そもそも2人乗りで後ろやら前やらに子供を乗っけることって適法だっけとか変な疑念も生まれるし。未成年カップルが青春2人乗りするのは違法だがモラトリアム。僕もやっていたから人のことは言えない。危なさで言えば圧倒的に前者な気がするが、モラトリアムでもなく言えない空気はありそう。知らんけど。

 

そうして、職場。

誰が居るとか居ないとかは全然気にしない。それにしても本日はやたらと人が少ない。ぼそっとこの印象を発話したら、先生が「救世主がやってきた、べつに忙しい状態ではないけど、不安を生じない」みたいなこと言ってくれて、自尊心は震えないけどもなんだかくすっときた。先生の語用、おもろい、素晴らしいって。特に現実的に仕事をやたらと振られているみたいなこともないし、一致はしていない。だからこそ言葉が意味を持つ。

 

職場はもはや今まで培ってきた既存のシステムが成り立たなくなってきて、他人事っぽくこれからどうするのだろうなという感じがある。僕が入った頃はベテランだらけで放っておいても仕事が成り立っていたけど、そこにかまけていたのかどうかはともかく、ベテランはどんどん去っていった。もっと囲い込むような経営判断は無かったのかと思わなくもないが、

 

この大変になってくる時期に去って良かったとも思わない。居ればもっと僕の素朴な経営論的な発言に耳を傾けられていたかもしれない。ここは送別会があれば色々言いそうな気がする。ここが悪かったみたいな呪詛を残すのはつまらないから、今後はもっとこうした方が円滑に行くのではという提案。まずは先生があんまり甘やかさないということではなかろうかとか、今後突発的なスタッフがやってくるのであれば、そっち方面の管理者をベテランから重用した方が良さそうですねとか(人材としてできそう、やりそうな人はおらんが)。

 

まぁ、そもそもこういうことを考えて良い雇用形態では無かったし、そういう方向に向かわなかったのが全て。次の職場はもっと楽しそうなところを探そう。良い人ばかりの職場でしたが、僕はさよならします。(感傷)。

 

 

やれやれ。

 

昨日の童貞論。厳密に言えば、僕は生活圏みたいな縛りがある世界ではないところでは結構気ままに人と関係していた気がする。ネットで知り合った人と逢ってそこだけの関係というのは変に気を遣わなくて良かった。別に性欲の発散の為でもないから特に手を出していない、というのは語弊があるがともかく。問題は相手がやんわり背徳感を持っていそうという居心地の悪さはあった。

 

いや、居心地が悪かった訳ではないのか。僕は何処でも居心地よく過ごせるようにするが、僕の人格を既定されるようなのは窮屈になるだけ。ここはとても難しい。

 

そもそも言語化された人って、その人の情報ではあるけれど文学的に見ればメタテクストとしての二次情報でしかないし、その人そのものでもない。自分のことを書いていてもその呪縛からは逃れられない。

 

僕が僕らしくというニュアンスは自分のことを見つけてくれる人がどこかに居るみたいな話ではない。そんな自分はそもそもいないという立場。

 

そうではないニュアンスは満月さんが捉えてくれている。

 

端的には、社会的にそうであるというポーズを取らなくても良いということ。この姿勢を取っているのが自分である、取らないのがあえての自分だということではなく、そことは無関係で存在して良いということ。

 

これって当たり前だとおもうかもしれないが、例えば自分が疲れている時にパートナーが楽しそうに安穏としていることに何か滞りを感じるのであれば、自分のポーズに相手も合わせるべきという人生劇場。相手の人生劇場に合わすことが愛情であるという世界観だと僕はげんなりする。お互い楽しみながら一緒に居られるかどうか。

 

こういう世界観は結婚が家同士の結合みたいな集合論だと起きない。幸せであるというポーズを取ることが幸せだという自縛的な世界になる。いや、縛られて生きてもなんのことない人はそれで生きて良い。

 

僕はこのポーズを取る踊りが下手で、愛情が無いと誤解される。相手を壊すくらい求めるのは暴力の一種だし、それが良いというマゾの人もいるかもしれないが、サドだってマゾが居ないと成り立たないから共依存っぽい。もっと穏やかに健やかに一緒に居るのが普通だなというのがポーズを取らなくて良くなった僕。少なくとも一緒に居なければいけないというのを婚姻で認証するつもりはない。

 

ポーズ論は分かるし、行動の面はきちんとやっている。無駄に遅刻するというのは時間に億劫なのではなく、相手の世界と合わせるつもりがないという人生劇場なだけであって、それでも過ごしたい人は過ごせば良いが、あんまり一緒に過ごすべき人ではないような気がする。そういう人は相手が仕事で遅れたことに般若になりうる。

 

僕は言葉でポーズを取ることを随分前に辞めていたみたい。誰かと話すのはきっと好きなのだろうが、ポーズしかない話はつまらない。

 

それが分かるためにここまで書いて居るということもない。

無根拠なのが僕の本質。そろそろ千本目になりそうだが、特に何の達成感もなく。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。