迷子

 

 

 

昨日やや飲み過ぎて胃もたれの朝。美味しいコーヒーをいただいて2時間ほど出勤道。名鉄も新幹線も座れて良かった。寝て補充すれば良いのに、無料漫画アプリで黒子のバスケが50話くらい無料になっていたものだから、車窓の光景とセットで読んでいた。

 

本日とてもいい天気。景色が綺麗だと感じられるうちはそれほど体調不良ではない。隣のビジネスマンが読んで居る文庫本も目に入る。「直子」という単語が見えたものだからノルウェイの森かと思ったが、別の本の模様。上の小さなタイトルに一瞬目を凝らすと「抱く女」というタイトルだった。読んだことはないが聞いたことはある気がする。調べたら桐野夏生さんだった。読んだことある作品もありそうだが、あんまり印象に残っていない。

 

目を凝らすというのは、まじまじ見ている訳ではなく、勝手に焦点が当たるという感じ。視力が落ちないからぼーっとしていないと視界からの情報量がとても多くなる。ライフハックでもなく単なる質でもある。外界情報にいちいち意味付けせずにただ眺める。

 

通常朝ごはんを食べないのだが、体がカロリーとアルカリ性を求めていたから梅干しおにぎりと鮭おにぎりを食べた。着くころには胃もたれも治まる。

 

 

仕事は、もうクールダウンな感じ。僕が考えることではないのだが、僕が通常として居なくなるから、あんまり引き受けたりはしない方が良いだろうなと。サボりではなく調整に入っている。あと、最後の日にお菓子を買ってお世話になりました付箋を貼って置いておくという目論見。東急ハンズが瀬戸内フェアをやっているみたいだからそこのご当地お菓子にしよう。

 

年下上司から、送別会の時に何を食べたいかということを聞かれる。予約するのだと思いつつ(いや、3、4人くらいだったら予約せずともどこかには入れる街だから)、ぱっと回答ができなかった。いまの感じだと、食べ物なら「馬刺し」だが、それよりも置いてあるビールが「キリン一番搾り」の方が捨てがたい条件。酔えるのだからなんでも良いみたいな飲み方は辞めている。

 

 

お昼ご飯。もうお弁当を作れない。食材はなるべく減らしていく方向性。昼は外食で夜は居酒屋メニューを作るくらいな残り一週間。讃岐うどんとおにぎりを食べた本日。美味しい。ただ、外食を日常にするのはめちゃくちゃコストがかかるよなって。自分で作ったら少なくとも3分の1には収まるし、ほとんどが炭水化物か揚げ物か。どうでも良いが、ロスをなくしていく社会にしておこうという標榜の中に、食品ロスを無くそうというスローガンがある。これを個人の責任としようっておかしくないかと個人的には想う。そんなことよりもっと前の問題なような。形が悪い野菜は売り物にならないから流通に上らないとかそんなの。安全とか安心を至上にするのであれば、ロスは仕方ないからそのレベルを下げればもっとロスがなくなるような。

 

何を食べるのも自由だが手っ取り早く満腹になることにはコストもあるというはなし。

これは幸福全般にも適用できるかもしれない。

 

夜ご飯。豆腐ときのこが冷蔵庫にある。豚しゃぶ肉と合わせて鍋にしてポン酢で食べたい気分。草(ベビーリーフ)は当たり前として、箸休めも欲しい。山芋のわさ漬けの舌だったが、わさびは切れている。柚子胡椒ならあったかと思ったが、これもない。レシピを検索していたら、オリーブオイルと醤油で和えるというのがあった。醤油の気分ではなかったらオリーブオイルだけ採用して、クレージーソルトとゆかりと白だしで和えてみた。初めての味だが、オリーブオイルと山芋って合うのを発見した。

 

 

ともあれ。

 

なんだかセクシー路線の人に読まれているみたいだが、そんなに艶っぽいこと書いていたっけ。単に自由のことを書いているからかもしれない。女性同士の浴場施設に行った記事とか読んでもへーと思うだけだし。

 

やれやれ。

 

村上さんの街と壁は荷物を減らしていかないといけないのに、続きのために大阪に持ってきた。完全な書下ろし性はまだない。補足情報が追加されているという感じ。これはこれで面白いし、そのうち世界(線)がずれて行くのだろうなという予感もある。ちょうど良いときにちょうど良い物語がやってくるのは、日ごろの行いなのだろうか。

 

世界線のずれという話で言うと、僕にとって満月さん以上の生活上のパートナーは現れないような気がする。お互い怒り(おこり)で疎通して相手をコントロールしようとしない。なかなかネガティブ寄りになることもあるのだが、そのネガティブは他人を攻撃する方向に向かわない。前のパートナーさんがナチュラルにそういう人だった模様でそれをしても良いのかとなっていたみたいだが、それをしなくても良いとなっているような感じ。好きな人を損なって得る自尊心なんてプレハブみたいなもの。オオカミの鼻息で容易く崩れる。崩れたところで、他の安全そうな家に逃げ込めば良いという世界観ももちろんあり。

 

もう少し書きたいのだが、時間も押してきている。

 

いま考えている鍋の中で煮えているものがいくつかあって、もう書いたことがある気がするのが1つ。芸術と技術の話。これ書いたとしたらもう1回書いてもつまらないだろうな。ありのーままのーというが予測変換に出てきているし。

 

人は自然であることを受け入れやすいとしている。これは何ぞやというと自然は法則がはっきりくっきりしているということにある。洗練された技術に無理とか拙さが感じられないのも同じ。無理が生じないためには自然をあてにするより技術を問題にした方が良い。

 

自分が自分であることが自然だとしたら、それは経年の中で試行された技術であって、そのままあるがまま誰かに受け入れてもらえるものでもない。

 

僕はなんだかんだ言語で体系化されていない自分のあるがままの自然だが、この自然で大丈夫なのは、誰かを遣って自分を慰撫することがないからであって、全ての人がそうではないのは分かっているし、それに善悪もないから人生劇場を楽しめている。

 

この下りで、忘れることを思索。

人って自分が忘れられることを怖れるから、言ったこととか事務情報を相手が覚えていないと自分がその人の中に存在するのかと不安になる。

 

この存在観の関係がどうもよく分からない。個人的には存在って情報でないから、情報を忘れらていたとしてもいるものはいる。

 

そもそも覚えようとする、忘れようとする意識が頭の中を操作できるのであれば人はコンピュータを必要としない。任意的に記憶を操作することができない以上、記憶の領域は自然の技術的問題であって、覚えているから優位とか想いが重いとは限らない。想いの表現としての情報量はありうるけども。

 

情報が物っぽく捉えられているから、お勉強できる人が一目置かれるのだろうな。たくさん持っていると錯覚される。

 

最後に何か書こうとしていたけども、どっか行ったからここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。