街と壁

 

 

ご飯の準備をしながら本日の日記。鍋でご飯を炊くということがないのに、鍋かつ炊き込みご飯というリクエスト。失敗しても満月さんは赦してくれる(別に予防線ではない)から適当(てきとーではない)に作った。今蒸らしている。たぶん美味い。

 

あと、あさりの酒蒸し。むかーしチェーン店の居酒屋に1人で行って頼んだときにじゃりじゃりしたからお風呂時間を活用して念入りに塩抜きして殻同士をこすりつけて洗った。

 

もう1つが鮭のホイル焼き。下味付けてホイルには巻いたからあとはタイミングを合わせてオーブントースターで焼くだけ。

 

蒸らしが終わった炊き込みご飯の水量は少々多かったが柔らかめとしては許容範囲。途中で味見できないから薄味なのはデフォルト。薄味は足せる。濃い味は薄めるのが大変。それより米の量の多さの方が問題かもしれない。まぁ、満月さんなら冷凍保存して全部食べてくれるはず(食べきれなくても問題ない)。

 

 

いつの間にできるようになったのだろう。

 

我ながら独身男性として料理スキルが優秀過ぎないか。毎日弁当を作っていると言ってもそこまで凝ったのはないのに。自慢とかではない。存在そのものからするとこんなスキルはオプションであって、あったら良いけどなくても良いと思われているはず。いや、歴代でいまがもっとも料理スキルはあるから満月さんにしか披露はされていない。突発的なのはあったか。辛口な幼女も食べられるカレー鍋。「あんなごみ溜めのようなキッチンからこんなに美味しい鍋が出てくるのは魔法か」と辛らつな感想をいただいたという意味で辛口。聡明で少しずれている感じの子だったから上手く生きられていると良いけども。

 

いつの間にかできるようになっていたことに対して特に誇らしい想いはないが、足跡として「よくもまぁここまで来たものだ」という感慨めいたものはなくもない。誰かより何かができることに対してもできないことに対しても自尊という概念がなかった。これで我が道を行けたら良かったのだが、僕は関係的存在観の方が現実ではないかとしていたみたいで、我が道の生き方を時系列の他人の既定に流されていた節がある。例えば、僕が料理をしだしたのは1人暮らしになって、自分は料理をしないという男性と生活圏で関係しなくなってから。そんなことは嫁に任せて仕事しろみたいな人が居たらおちおち料理も楽しめない。我が家の家系も旧来だから、男子厨房に立ち入らずだったから、母のやり方とかお祖母ちゃんの料理法とか全然承継できていない。

 

そんなことより男は家系を承継すべきだという話もあるが、家系によって個別の家庭が承継されていることはないし、血縁だって辿って行けば始祖であるアダムの子供の系譜だし。いや宗教観を取っ払っても家族という概念ができる前の始祖からの親戚はいっぱい居ると思うのだが、それが残ることで自分が継承されている気持ちになれる気持ちが正味良く分からない。アイデンティティの一部が肉体としてのDNAになっているのは分かるが、継承されるのはそこだけでもないような。

 

 

足跡といえば、昨日誕生日だった。日記を書かなかったのは現実に忙しかったからとも言える。なかなか嵐のような出来事。運試しには2人して盛大に負けるし、満月さんのタイヤは経年劣化でパンクするし。

 

誕生日なのに散々だと解釈しないのが足跡のたまものだなという次第。外界の出来事は自分の運用上大事だし、関係性も大事にしないといけない。ただ、存在そのものは外界の出来事に影響はされても左右されるものではないよなと。

 

たまたま暫定総括でnoteの総アクセス数を見てみたら1万を越えているという。途方もない。こんな時代でないと在り難いことでありがたいこと。最近の記事でも数10単位で読んでいる方がいらっしゃる模様。見えるスキより見えないアクセスの方が個人的にスキです。見えるスキは特に響いたのかという感じ。何が響いたのかは定かではないけれど。

 

足跡という意味での文章も、もともと大学生の時のモバゲーで一言日記を書いていたころと表現力が向上している気もしない、文字数は増やしているけれど文字数が増えたところでポイントが鮮明になる訳でもない。言葉をいっぱい遣えば伝わるというのはほとんど嘘だと想っている。相手に準備がなければ言葉という媒介なんて受け取れないし。

 

僕が言葉での疎通をそこまで信仰できないのは、この辺り。

通じるというという感覚はもちろんあるけど、ほんとうはもっと読み合う部分なような。自分が言ったことが通じるかどうかなんて仕事外だとどうでも良い。仕事はありのーままーのー自分で居られるような場所でもないし、変な話、仕事外でもありのままーを貫くことなんてできない。

 

 

この違和感を解明するのが文学の構造論。この考え方は結構スキでもある。言葉には由来があって、全体の一部でしかない。あと、言葉って差異でしかないという見解も辛辣で好き。たしかに善悪とか良し悪しとか肯定否定を問題とするなら、自分の存在は関係の中にしか居ないし、自分の言葉のアイデンティティも関係性にしかない。

 

ここで変な挿入だけど、若さとか若い女性性とか、それを使えない人はあれこれ言う。何か持っていた方が良いとかもそう。個人的には、そういう属性はいずれ無くなるのだから、使えるうちに使って余生に蓄えて置いた方が良い。当人がアリとキリギリスでいうところアリだったら。それで蓄えたアイデンティティは過去の栄光にしかならないキリギリスっぽいのだが、スキに生きれば良い。

 

個人的には若いからなんだかみたいな統計論はほとんどどうでも良い。不摂生とされていることは結構しているのに鉄壁の腹筋だし、自分の過去に対して若いから不摂生をした後悔を負うみたいな時系列がない。ビールは今のところいくら飲んでも後に責任を負わすことがない(健康診断という科学)。不摂生があったとしても、僕は一切過去の自分に責任を負わす気がない。だって、過去の自分も自己そのものなのに、他責というか他者としての思い出になるのがおかしい。

 

そういう存在認証は分かるけど、自分自身を消費しているのだろうなと思う。

 

僕はこういう意味で、過去のやらかしとか未来へのやらかすべきことを含めてまるっと自分とできることが、確立した存在だと思った。こんなの関係性の中では出てこない。関係性の中で生きていたら料理も文章もこれだけ自分そのもので楽しむこともできなかった。

 

いまがもっとも楽しいし、楽しさは未来で更新される。

 

 

何があっても楽しめる。

これはもちろん、絶対的に悲しいことがあった時にも相対を気にせず悲しみに浸れることも含む。悲しい時は立場を気にせず泣いたら良い。

 

やれやれ。

 

村上さんの新刊の話。

 

物語自体を読解しようとするのが構造論。構造論って、物語と自分の関係性を問題とした読解。この読み方って書物を友達みたいに捉えている読み方で、書物に対して親和性があるのだろうな。こういう風に本を読む人もスキ。

 

(僕は自分の頭で考えているひとはだいたい好ましい)

 

というところで、僕の読解。

壁とか影とか、メタメタな存在認知だよなって。壁はATフィールド。

 

ここでいう影って、僕の解釈だと、当たり前の現実的な存在としての実感の証拠。肉体は物体だから日が照ると物体として影が存在している。そこが存在として現実的な証拠になる。

 

その確証がないところで存在を書きたかったのではないかという印象。

 

でも、これって、影の方がむしろ現実的は存在めいているような。

影の方が実体っぽいというのは僕が随分と永い間影のほうで生きて来たからかもしれない。

 

どっちでも良いけど、どちらが楽しいかというのが問題。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。