試み

 

 

お月様に挨拶するついでにビールの空き缶を捨てに行くと薄く広がった雲にかくれんぼ。全然がっかりしない自分。

 

本日は漫画読んだり動画見たりと休日を満喫していた。並行的に頭がぐるぐる回る。朝ごはんは茹でうどんとおにぎり。握る才能は皆無。いや、僕の中で何か才能と呼ばれるものは何においても無い(肯定的評価)。才能って、たぶんそれに従わないといけないという衝動的要素。そんなギフト貰っても負いきれない。生まれている時点で既にもたらされているいのに。

 

昼ご飯は、おにぎりに使ったご飯の残りで何かレトルトで良いかという算段。水も買いたかったし。なんとなくビーフカレーにした。付け合わせは家にある白菜の浅漬け。スーパーへの買い出しの道順を遠回りして、理容院のペイントを眺めに行く。クリスマスツリーの下にプレゼントが2つ。隣にトナカイ、さらに店長の娘さんらしき女の子。別にやましいことをしている訳でもないのにバレないように遠目から眺めた。こういうのもやめた方が良い。

 

まぁ、したいと思っていることですぐできることを速やかに現実化できるようになっているのは、あるべき自分化感がある。熱田神宮は年明け辺りか。1月2日とか新幹線走っていたっけ。人がたくさん居るから行かないというのも遠慮しぃ。

 

本日はこういったあるべき自分と、配慮と遠慮の話。

 

インプットとアウトプットを拡げなきゃなとふと想う。そいえばnoteで歌人さんと宵顔をフォローしてなかったなと思い至りぽちっとした。アウトプットとしてのここも活用しても良い。というか、このニッキを掲載する場所を増やすのでも良いのか。日記というよりは散文に近いような感じがあるが。

 

芸術界隈の情報源も狭まり。宵顔さんのTwitterをなんとなく見ないようにしたためイベント事の情報が入らない。まぁ必要とあれば自然と入ってくるだろうという感じで、あんまり積極的に情報収集をすることはない。でも、歌人さんのフォロワーを眺めていると良い感じのクリエーターさんが居た。興味がある人がどんな人を好んでいるかって普通眺めない? これはストーカーちっくなのか?

 

法律界隈のPDF記事で、ドイツにセクシャルハラスメント罪が創設されたという好きな学者の論考があって、日本のストーカー規制法が出てきた。曰く、拒まれたのにメールを送りつけるというというのが駄目らしい。であれば僕は宵顔さんには明示的に拒まれてはいなかった。ただ、返信がないのは黙示的な拒絶であるって主張されたら、僕の常識だと後者寄りになる。

 

それとは別に、セクハラを犯罪として創設することに意義があるのかは法律談義として一定の価値がある。相手によることを一律に決めるというのは良いことなのか。どういうルールが一番良いのだろうな。配慮がない世界だったら決めた方が良いのか。

 

話がそれた。

 

「線は、僕を描く」に繋がる絵師さん。水墨画というよりは現代アートとして「黒」を素材として描いているように見えた。素材の1つとして墨があるのかなと。やはりきちんと彩がある。個展を開いているという記事があったからちょっと行ってみたくなった。ただ、場所は書かれてなかったような。ダイレクトにコメントを送っても良いのかなという気分もある。どこでやっていますかって。

 

宵顔さんの記事も更新されていて美味しい。劇評を書かせてもらった演劇がリニューアルされてもう1回あるとか。大阪は来年。ただ、テーマが「争い」のやつなんだよなぁ。「命」か「仕事」のだったらもう見に行くことを決めて良かったのだが、僕の思想として「争い」は他人とではなく自分とするもので、人とは協調ないし協働するのが社会的にはメリットなのではという仮説が出てきており。

 

これは別に理想論ではなく素朴な生物史とか人類史による。生物の進化は淘汰によって起こったというダーウィンの進化論は正確ではなくて、より世界を捉えるために細胞ないし生物が協働したという流れもセット。争いはなんというか「過渡期」の観念な気がする。

 

例えば、学校のクラス全体での知識の習得率を上げるためなのかなんなのか、今は順位を付けて競争させるようにしているけど、これが本当に正しい方法とは限らない。成績上位者がなんですんなり分かるのか、下位者が何故分からないのかを話し合って教え合うことで知識の習得率を均すという方法論もありうる訳で。これこそ人っぽくないか。内輪でもやらないことだからできないというバイアスはありうる。

 

自分を含めた人を肯定しにくいのって教育のしわざはあるよな。

 

どうでも良い風で繋がっている。なんとなく、「感じが良い人」になりたいなと思った今日この頃。コンビニの店員さんとかスーパーの店員さんに声が通るようにしたいなというのがまず。Edyの発音がIDと間違えられるからはっきり発音せねば。腹式呼吸。あと、心でにこやかに感謝しているのだから、それは現実化して良いなという意味での現実的振る舞い。基本的に無表情族だからあんまり一致していないような(いや、だったらこの膨大な笑皺は如何)。

 

配慮と遠慮はよく似ているが、似て非なるもの。

 

新刊枠のラノベで、自分が人に自分のことを語れないのは、それで相手を傷つけるかもしれないというより、自分が変な風に見られることから自分を守る為であるシーンがあった。これは配慮でも遠慮でもなく、エゴよな。

 

これを見て、僕が世界に自分を出して居なかったのは、僕が変な風に見られることの危惧ではなく、相手から見た人像の中で僕を捉えるのにリソースが無駄に消費されるというまさに無駄な配慮と遠慮だった。

 

今って、コンビニでもビニール袋が有料化されていて、新人のコンビニ店員さんは袋詰めの技術を積み重ねることができないから、2リットルの水を日本と弁当とか買われたら大変だろうなと遠慮するし、文学フリマのような個人が出店するところではおつりが不足するだろうから、ぴったりの小銭を用意するとかの配慮は当たり前(今度はいっぱい買うからいっぱい準備しておかねば)。

 

くらいの、気遣いと呼ばれそうなことを自然とやっているから、遠慮せず現実化して良いなというだけの話。自分のことを知られたいという意味合いでの解放ではない。僕も自分のこと知らないのに知ったかぶりされても困る。

 

これは逆から見ると、僕は一般的な意味で「いい感じ」の人を特に好印象に捉えて居ないということ。現実世界におけるこれはそれで上手く行った成功体験の蓄積であって、意識して意志してやっていることでもなかろうし。

 

僕は当人の中で当たり前でないその人を見ていた。

 

当人の中での当たり前は、潜在意識による。潜在意識はエゴが生まれる前にダウンロードされた情報源による。親から言われた、貴方はこうなのだという風説の蓄積。

 

言葉が虚偽だという宵顔さんの説はこういう意味で正しい。

潜在意識が構築される段階では冗談で言われたとしてもその真偽は判断できないから、言葉を真理として収集するしかない。

 

でも、現実世界において言葉を真理として扱う人はほとんど居ない。

これは発話におけるコミュニケーションが言葉の意味をざっくりとして良いとなっていることによる。

 

この話掘り下げると楽しいのだが、今日はしない。

 

 

やれやれ。

 

なんでこの僕ができ上がったのかは分からない。僕の経験則上でも潜在意識上でも人は自分が一番大事で、そういうことしかなかったはず。自分の大事の為に人に何かする人も居なかったし。いや、唯一父親からの承継なのかもしれない。

 

現実的な意味でいうと、僕は自分の存在証明の為に自分が自分で居ること以外を条件としていないから、もともと自己肯定感の為に他人が要らなかったらしい。この自在性はもっと使いようがある気がする。

 

遠慮せず、色々してみるか。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。