わちゃわちゃ

 

 

 

夏真っ盛りくらいの気温でセミも繁忙期。ゴミ出しから始まる2連休前の1日。

 

仕事。お偉いさんがやって来ていたのだが、面接時より随分と柔らかい空気だった。忙しい店長ができない部分の研修項目も優しく教えていただいた。名刺交換の練習させてくれて嬉しい。店長でも分からない人事部の領分の懸念事項も解決してくれた。自分もあんまり運転しないから、不安になる気持ちも分かるとフォローしてくれる。ありがたや。

 

朝礼の無茶振りはなかった。

 

宅建の進捗状況やらも聞かれた。お風呂読書の中の1冊とまでは言わなかったが、1日20分くらいでここまでは来ていますという報告。職場のグループに入って皆で進めていくみたいなことも提案されたが、僕はマイペースで進めていきたいと言うと、それでも過去問が手に入るのは良いぞよと言われた。

 

ほんと店長もこの人も優しい。期待値が凄いからなのだろうが、僕が真面目というか誠実っぽい人格に見えることもあるのかもしれない。主観で全く真面目ではない。真面目って要は完璧主義みたいなもので、それをしないと強迫観念が芽生えてしまう性質だと考える。僕はすべき項目があればしておこうかというくらいであって、それがなんらかの理由できなかったとしても、あんまり気にしない。もちろん、絶対しないといけない部分ではなく、ある意味なぁなぁになっても性格として把握される部分。

 

まぁこんな印象を持たれる雰囲気が醸造されているのであれば、なるべく使うしかない。ほんとはそうじゃないという内心があったとしても現象化されているのはそう評価されるような実体なのだから、別に嘘で振る舞っている訳でも無し。

 

文章を書いていることによってちょっと得しているという部分。研修の日報に何をしたかを記録する枠があるのだが、どの枠もどれだけ頑張っても60文字くらいしか入らないもんで、こんなの各項目1分くらいで書ける。これも真面目と評価される1因になるというお得感。

 

相対化するとなかなかいい物件で生きているという、自分で生きていて良いのかとは別のところで楽しい。

 

店長はヨイショする人だから、この会社史上稀な当たり人材と持ち上げてくれる。そうなれるようにこの場で生きていけるように食指を伸ばして行きたいところ。

 

そういえば、昨日考えていた朝礼のスピーチの内容。

先輩男子と先輩女子のスピーチを聞くところによると、本来は業務上役に立つようなことを話す模様。例えば本日、先輩女子のスピーチ。世間は夏休みに入って普通は居ない時間帯に子供が居ることがあるから、運転する時は気を付けようみたいな話。

 

僕はそういうのは話せないから、自分のことしか語れない。

先週から入って、ちょうど一週間経ちました。毎日新情報がわんさかで動揺やら混乱をしています。(ここは具体的な業務情報)。消化不良にならないように知識を吸収して早く職場の一端を担えるように精進します。たくさん質問してご迷惑とは思いますが、対応いただけると幸いです、みたいな。

 

運転が不安だからレンタカーで練習したという話。社長から面接のときに提案されてやったのだが、店長はそこまでしなくても良いよと言っている。個人的には社用車で何か起こすと面倒だし随分運転して居なかったからやっておこうと思っただけだし、別に仕事の経費という意識もない。店長は経費として返って来ないのだからそこにお金使わなくも良いよという感じだと思われる。

 

店長は研修についてあんまり知識が無いようで、運転の研修を自分がやって良いというこを把握していなかった。お偉いさん、というあだ名はなんとなく侮蔑的なので改めよう。やわらかエリマネといま決めた。やわらかエリマネに指摘されて、さっそく連休明けにやってくれるらしい。これでOKになればもっと活動域が拡がる。

 

ということで、明日は満月さんが見つけてくれたこの前借りたより安いレンタカーがあったもんで、誕生日の満月さんを運転でエスコートすることにした。社用車と同じくらいの大きさの車があったから都合が良い。

 

2回やったらだいたい馴れる。

細々した気遣い的な操作は反応というより想像とか人間性の話なような。

 

 

さておき。

 

本日は5000文字を目指したいところ。文字数は関係ないではないかというという見解もあるだろう。ただ、正確に言葉を遣おうとする人は発話数が少なくなるから、てきとーな言葉でいいから10倍くらい話すようにした方が良いというのが岡田さんの言。書き言葉ではその呪縛から離れているが、書き言葉がどれだけあるかというのは話し言葉にも連動していそうな気がする。

 

書き言葉と話し言葉は運用が違うから別物だという説もありそう。

話し言葉の方が自分をきちんと伝えられるが、書き言葉は読み手の解釈によるから誤解が生まれやすいって。

 

ほんまか。

 

話し言葉の方が伝わるという認識は、非言語情報(表情、振る舞い)が十分読まれているから、あまり言葉自体は関係ないというか、あんまり言葉そのものを聞いて解釈する土壌がない。読み物としてではなく聞き物としての言葉を完璧に記憶できる人なんて居ないし、言葉は現実の関係においては添え物くらいな立ち位置だと思う。

 

書き言葉、読み言葉として言葉を認識する領域が読書脳なり読み手脳なり文章脳。

 

話し言葉世界と違って、記録に残るといういう意味では厳密性は増すけれど、かといってここだとしても全部を書くことも覚えることもできなくて、良いようにスポットライトを当てて書く、ライトが当たったところを読むことしかできない。

 

これは当たり前なのだが、この当たり前ってあまり認識されていないような気がする。ここの誤認が生じるのは、非言語情報が感得できない場だから。僕は書き言葉と自分の現実が誤認されていたとしてもしょうがないと思うのだが、書き言葉だけで接して現実で逢った人から、思った通りの人と評されることが多い。

 

個人的にいま想ったのは、結局のところ正確な人の認知って現実関係だろうが文字関係であろうが無理だし、なんなら、自身のことも正確に把握することは一生不可能なのではという説。

 

もちろん、自分のことが分からないんですって対面で誰かに言語化したらやばい奴認定されるからそんなことはしないし、自分がどうであるかは非言語情報を観察していれば分かるし、言語でも説明できる。把握されている自己って非言語情報がほとんどでその非言語情報って、要は、現在自分が存在している場というか環境で生きている自分を観測している情報であって、どんな環境でも一貫している自分では在り得ない。

 

変な話、震災なり戦争なりが起こって通常の環境が瓦解したら、いまの人格と全く同じのまま生きられるはずがないとか。

 

こじらせではなく、自分というのはそれくらい曖昧に捉えておけば楽だし、翻って他人のことも分かり切ることはできないということを頭の片隅に置いておいた方が人生劇場上楽だろうなって。

 

やわらかエリマネが、貴方全然雑談に参加しないけど人と話すこと嫌いなのって聞いてきたのだが、雑談自体は特に嫌いではない。ただ、自分を伝えるための手段として雑談がないからちょっとずれているように見られるのだと思う。

 

ここの微妙なニュアンス。例えば僕が最近セミが繁忙期でしたと雑談で話すことは、僕がそれを感得できた観察でしかなく、別にセミが好きとか嫌いとかとは無関係なのだが、話し好きな人は、結構人格と連動したことしか語らない。

 

満月さんとはよく話す。これを内弁慶だと評されるのだが、個人的にはちと違うと思わなくもない。仕事の細かい話は満月さんと話すのだが、これは語りたいではなく、語れるから。

 

まぁこんな話もネタバレでもなんでもなく、僕の文章を読み続けているような人には伝わっていると思われる(思い込みかもしれないという余白も大事)。

 

 

やれやれ。

 

そろそろ次の小説枠を採り入れなければ。

「ある男」は全部読めないかも。昔だったらもう少し読めたかもしれないが、読んでいて光景が頭の中で出てこない小説は割ときつい。

 

夏目さんとか太宰さんとか、古めの時代だとしてもちゃんと光景が頭に再現される。プロに失礼かもしれないが、消費者は言いたいことを言っても良いという前提で言うと、ちゃんと書きたいことを書いているかによって読み味が変わるのだと思われる。

 

書きたいことというか、言葉にちゃんと当人が乗っているのか。

ノリでも良い。ノリノリで書いているのか、職業作家として書いているのか。

 

「虎よ、虎よ」は翻訳者が媒介しているのに、光景化の量が半端ない。1984年も凄いし、ドグラマグラも凄かった。途中までしか読んでないから続きを読まねば。

 

僕の文章は毎日ノリノリで書いておりますが、光景化はそんなにされないと思う。

文章力というよりも、最近は日常の光景描写をあんまりしていない。したところでどうかは知らない。読んでいる人に投げっぱなす。

 

要は、凄い文章って、当人と言葉の身の丈の採寸が合っていることだと思う。

言葉って知っていれば色々きらびやかに装えるけども、どれだけ使ったところで衣服みたいになると、その服装しか見られない。

 

偉そうに書いているが、あくまで僕の世界観としてはそういうことというだけ。

良いことを言うとか良いことをしているとかではあんまり響かない。

 

そういえば、前職の年下上司から全く連絡がないのだが、バーベキューはどうなったのだろう。当時の同期とか、先輩とか先生とかにもう1回会いたいところだが、主催者が僕の存在を参加対象にしないのであれば仕方ない。

 

この感覚って変かもしれないけども、そんな感じで世界を見ているというだけ。

人とか場とかに執着したり帰属意識を持ったりするのはとんと苦手だが、だからといって存在を忘れる訳でもないアンバランス。

 

 

どうでも良いというか、文字稼ぎの乱立。

満月さんがどんどん縮んでいる。横幅もだが、縦も。縦に関しては僕が猫背ではなくなって視点の高度がちょっと上がったという可能性もある。嘘はつかないスタンスだから観測上そうなっている。アイスはもりもり食べているのに面白い。ディスっているのではなく、僕が買ってきている。美味しそうに食べるもんで辞められない。

 

あとちょっと。

 

本日はお母様とお父様が宮城旅行に行った牛タン。焼き肉の品目で言えば牛タンがもっとも好き。脂身が多い部位は胃もたれするから、ロースとかハラミとかになる。満月さんの好物でもあるからほとんど残している。

 

ついでに不在票でお父様からの冷凍の宅配物がある模様。なんだろうな。

さらについでに言うと、満月さんって、割とファザコンみがある気がする。これは当人に言っても否定されるに違いないのだが、父性からの愛の言葉を渇望した時期があったのだろうなと勝手に読んでいる次第。別に僕がその役を買って出るみたいな話もないし、そこをどうにかしようとも思っていなくて、ただ単にそう観測されているだけ。これによって僕の振る舞いが変わることはない。

 

あと原稿用紙1枚ちょっとに迫ったか。

 

家庭菜園でもないけれど、一昨日育てだした豆苗のみょー! はすくすく育つのに、育てる水草は全然育ってこない。芽は出たのだがそれ以上育つ気配がない。もう水をまんたんにして良いのかとも思うのだが、説明書では十分に育ってから水を満たすという記述があって、まだ早足かもしれない。

 

まだ満月さんは帰って来ない。

同じ店長の立場として、うちの店長の気持ちは分かりみと言っていた。また何かトラブルだろうか。アイス屋さんだから今の時期がセミ以上に最繁忙期。アイスを掬う黄金の左腕(満月さんは左利き)が疲弊していると言っていた。今日もお疲れで帰ってくるだろうから、もちろんアイスも買ってきている。

 

あと数十分で誕生日だから、ハッピーバースデーの歌の準備もしておかないと。

あーあーあー。笑

 

 

 

もうそろそろお暇。

 

書きぶりで読めると思うのだが、僕はほんと毎日楽しく生きている。

理由がある楽しさは醍醐味であってもちろん。ただ、理由がない楽しさを味わえるようになったことの方が大きいに違いない。理由がないことの方が単純に感動できる。これが何か現実的にメリットになっているとは思わないが、もはや貌に出ている以上、このまま楽しく生きればいいやとなるしかない。

 

全然関係ないけど、ふと思い出した。

本日職場の啓発動画でNISAが云々というのがあった。資産運用の話自体は面白かったし理屈は分かるのだが、これって、良い部分しか語っていないよなとなる。

 

細かい設例の解説をし出すと大変だから省略。

 

おー、5000文字のノルマを達成したのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。