徐行

 

本日は昨日より遥かに元気。元気のバロメーターは世界が広くなるところと行動量。世界が広くなるというと自分がちっぽけになるという感じになりそうだが逆になる。調子が悪いときの自分のちっぽけさは、自分が自分がになって自己の近々しか見えなくなること。そこに自分以外の世界はない。

 

行動量の方は、実際に動いているかというより動くことに対しての精神の消費量が違う。僕は体の疲労ってほとんど感じない。自分の意志で体を動かしている限り、アスリートではないのだから運動量はそんなにない。何時間歩いてもけろっとしている。

 

先に家事の話。満月さんが遅めの出勤だから唐揚げの下味を付けておいてくれた。満月印の唐揚げはおそらくほとんど誰にとっても美味しい。そのうちこれを食する人がもう1人増えるのか。たしか唐揚げ好きの同僚さんが来たいと言っているはず。

 

本日こなしたタスク。洗濯機を回す、洗濯物を干す、お風呂を洗う、アイロンをかける。調子が良いと、1つが終わらないと次に行けないということがないから、それぞれの待ち時間を有効活用しつつ、唐揚げ用の油を温めるだとか、米を洗って吸水するだとか、茹で卵を作ってすぐ漬かる温玉の調味料を作る。

 

唐揚げの原材料である鶏肉が少なかったから、満月さんには温玉丼を振る舞おうと思っている。メンマとレタスを散らしてマヨネーズをかけるジャンキーな感じ。この夏場、史上最高気温らしいから、きっとアイス屋さんは大繁盛でお疲れなはず。デザートには帰りに寄ったコンビニでたまたま見つけた杏仁豆腐もある。

 

細々した順番を書いても仕方ない。ついでに2回目の豆苗の「みょー!」が育ってきていたから、何か副菜をという所望。ツナマヨサラダがみょー! の青臭さを緩和する鉄板なのだが、本日はマヨネーズは丼物に使うつもりだし、冷蔵庫に残っている豆腐を使って白和えにすることを目論む。青い野菜と豆腐の組み合わせを生の豆苗でやってみる。僕が考えるようなことは誰かが考えていて、きちんとレシピがネットにあった。

 

レシピがあるということは自分の味付けでやっても大丈夫ということ。ツナ缶と豆腐をほんだしと醤油で味付けて、そこにみょー! を和える。豆苗って青臭いのはたしかなのだが、何かと和えるときちんとしんなりして調和するところが好き。茹でなくても和えて置いておけば嵩が減る。

 

 

さておき。

 

仕事でもそこそこ動いた。

 

店長はこいつ車を動かすのヤバイなと思いつつ、次の策として自転車圏内で行けるところを見繕ってくれた。おびえながら運転するのを初めて見たみたいに先輩女子と雑談していたが、普段運転しない系だから、そんなの普通ですよと返してくれたのはちょっと嬉しかった。運転の心構えとか苦手克服とかのネット情報を散策しているのだが、運転は周りに迷惑をかけないように動くことであって、最終型は同乗者を快適に運ぶようになることだというのはなかなかの目から鱗。視界が狭まっているとそんな発想は起こらない。自分が移動できれば良いと言う意識はないけれど、自分が上手く動かせるようになりたいという意識はあった。

 

今度レンタカーを借りるときにはここを意識しよう。

ペダリングも昔仕様でやっていたみたいだから、ここも意識する。

 

 

そうして、具体的な仕事の話。

 

この業界が扱っている商品の本質というかもっとも重要なことは、「動かせない」ということだろうな。不動産という単語は良くできている。個人的には物理的な生活空間がある程度不便でも生活にほとんどストレスがないという感じなのだが、住環境にストレスを感じる人には、場所の雰囲気がとても大事になる。そうして条件を全て満たせば大丈夫なのかというときっとそうでもなく、合理性要素より非合理の方がむしろ大事そうな気がする。

 

その非合理の中には紹介してくれた業者さんへの安心感も当然含まれるし、自分とその場所がフィットしているかみたいなところなのではって。その馴染みは条件という合理も入って来るけれど、直感的なところもあるような。直感を大事にしない人でもきっとそういうのはある。なんか合わなかったという合理的言語に変換させそう。

 

突き詰めていくと奥深くて面白い。

 

そんなことを言い出すと、自動車は動ける住環境みたいなところもある。不動産と動産の中間形態。生活手段でもある。

 

 

ともあれ。

 

そろそろご飯炊くかな。

 

 

そういえば、「君たちはどう生きるか」の部分的解釈。

 

僕が、お、と思ったところ。主人公の後妻が亡くなったとされている元嫁の妹で主人公がお母さんと似ていると思っている。もちろん時代的には当時良くあったことなはず。結婚は個人の結合ではなく家の結合という側面が強かったという話だし。

 

ただ、今さらこれを改めて表現することってどんな意味があるのだろうって。

後妻を母親として受け入れる主人公の成長譚であれば、別に前の母親と似ている人を登場させる必要がないような。

 

これって、関係が父と子と、父の嫁という表現になっている。父と子の関係は不動だし子からあれこれ言えるものではない。このあれこれ言えないということを支点として少しスクランブルして嫁視点で見ると、例えば自分と似たような人を前のパートナーとして選んでいるパートナーを受け入れるみたいなこともできそう。

 

似ている人同士が連綿と繋がっている中のある区切られた時間の1区画でしかないみたいな。ここで気に入らなくても受け入れていくのがシュールレアリスムでいうところのありのままで世界を捉えることよなって。

 

こういう取り留めない思索が出てくるのも元気な証拠。

 

個人的なところでいうと、満月さんが歴代のパートナーと僕との似ている部分を結構語るので、こういう解釈ができて来たのだと思う。ちなみに、どれだけ似た所を語られようが、似ていないところを語れようが、全然嫉妬は起こらない。これって、おそらく人は所有する物ではないという実感があるから。関係している人は財産ではない、ただのプライスレスな人でしかない。

 

比較対象化されるものでなければ嫉妬は起こらないし、選択肢もない。

こういう感覚で生きている人物がよくもまぁここまで生きている。

 

とりあえず日記はここで収めて、満月さんが美味しそうにご飯を食べる姿を見ることにする。表情で美味しいかどうかが分かり易い。

 

という感じで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。