とんとん

 

 

 

本日のリクエストはサーモンの漬け丼。付けすぎると辛くなりすぎるからまだ準備していない。副菜は自転車で荒道を通ったことによって割れてしまった卵で卵焼きを作ったのと、悪くなりそうな豆腐で白和え。余ったニラと安かったエリンギで作ったのだが、ちょっとうまくいってない。

 

味噌を入れたのだが、黒い味噌しかないから黒和えになって、色みがよろしくない。味は悪くなくても、色みで味が落ちているような。たぶん満月さんもあんまり食べてくれない気がする。知らんけど。

 

 

 

さておき。

 

本日のお仕事もあんまりうまくいかなかったような感じ。この指標は持ち帰っている荷物(精神的シコリみたいなもの)が多い気がするところ。実際は何か失敗をしたわけでもないのだが、明日以降ちょっと大変になるかなという不安の量による。

 

平日だからほんとうは研修項目をこなしたかった。運転も毎日した方が慣れは早いだろし、感覚が遠のかないし。頭に知識として入れるというのはあんまり遠のかないのだが、運転はもともと慣れていないから毎日しないときっと遠のく。運転講習が週明けに早々と決まって、余計に焦る。まぁ、他の項目が終わるまでに終わらせればいいのだが、ここを通ることで仕事の世界がさらに拡がるから、個人的にはもっともはやく通りたいところ。

 

普通に生活として運転してきている人は普通にまず通る関門だし。

 

ただ、それは別に、もうすぐ退職になる先輩男子の目論見として別の難易度高い研修項目をやらせようというのがあって、そちらが優先になった。それがこなせたら良かったのだが、実際は相手に連絡が取れなくて無くなってしまった。結局本日は何1つ研修項目が進まないということになる。

 

先輩男子の自分が居る間になるべく慣れて貰おうという目論見自体はありがたい。有言実行で実務項目ができるように教えてもらった。その空気を感じたのか、店長も1つ実務的なことをやらせてくれる。

 

あと、先輩男子が居なかったらやってくれないだろう、ロープレもしてもらった。ほんとは店長が率先してやる研修項目だろうが、我がお店の店長はそういう人ではないし、おそらく新卒のカリキュラムとしてはあっても中途にはないのだろうな。

 

実戦形式は、実践として収集されるから為になる。

店長もこれは練習なのだからどれだけ失敗しても良いのだよと言っていた。

 

ちょっと正しくやらないといけないという感じがあって拙くなってしまったが、実際の会話の延長であれば、もっと促すようにできたら良いなという感じ。仕事上必要な項目ばかり聞き出そうとしなくて良い。たしかに先輩方も実務ではそれをやっている。

 

ただ、こうやって実務項目が増えて業務に参加するようになったとして、研修項目はいつこなせるのだろうというのはやや気になる。先輩男子が退職したら店舗の人数も減るし、研修項目に当てる時間も減っていくだろうし。研修項目を終えないと見習い期間が終わらなくて給料にも影響してくる。

 

 

いやはや。

 

なかなかネガティブの想定。まぁでも、気にしないようにしているだけで、気にしようとすればいくらでも堕ちられる。ただ、実際そこに浸っているのがなんだかつまらなくなってきたというのが、ここ数年くらいの現象だから、おそらくどれだけ悲観的な想定してもなんとかなってしまうのが人生劇場だというポジティブになっている。

 

ほんとうのポジティブは脳内が麻痺しているというのが岡田さんの説で、僕もそうだろうなとしている。ポジティブに見えた方が外に安心を与えるというのは分かりみ。僕がどのように見えているのかは僕には見えないことだけど、僕が見ている世界がその反映だとすれば、間接的に見えてくる。

 

あえて中の不安を見せて人間味を見せるという手法もあるかもしれないが、僕はそういう手法は辞めている模様。書いたとしても、実際の人間関係でそういうことはあんまり言わない。

 

そういえば、「人間的であること」の定義をお風呂読書しながらふと思索した。これって定義付けらない矛盾があることと考えたのだがどうなのだろう。変な話、定義が中にあるのが人間だとすれば、外にルールを作ってそれで円滑な動きができるように設定する必要がない。定義が内包されている存在としては、虫とか動物がある。特にルールが外にある訳でもないのに、種として一貫性がある。人間が居なければもっと繁栄しているに違いない。

 

動物農場」でそんな話があった。家畜は人間に一方的に搾取されているというお偉いさんぽい動物が演説しているシーン。例えば牛が乳を年間何ガロン(ℓ換算分からない)出したとしても子牛には届かないみたいな。

 

たしかに家畜の動物はどれだけ大事にされていたとしても、人間の家族と同じようには扱われない。機能としての家族類似の感情はあるだろうが、どうあっても同じにはならない。これで言えばペットも同じだが、この同じさのルールに矛盾があるのが人間だから、それぞれ感覚的な定義あるはず。

 

別にそれが悪いとも思わないし、そういう矛盾があることによって人間社会が発展してきたのだろうなという感じ。言葉とか芸術とか、まさにそうだよな。

 

人間として生きる醍醐味は、矛盾とか量で測れない世界の中で動くことだと思っているのだが、ここでしんどくなる気持ちも重々分かる。僕も特に何がなくとも退場念慮がちらっと出てくることは折に触れてあるし。

 

本日は短いけどもここまで。

 

ご飯炊こう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。