考え事

 

 

 

64スマブラは満月さんが操作するサムスに全敗。言い訳でもないけれど、なにせ当時64があった友達のお家で少し触ったくらいだから、操作方法が全く分からない。色々キャラを変えてみて、ネスが合うのは分かったから、さっさと書いて満月さんがスマブラを独習する時間を設けよう。

 

ほんと、我が身はポンコツで面白い。続けたものだけしか返ってこないという意味でステップアップしていくのが楽しい。記憶力だって世界に対して意識し続けたという物心付くまでの実績があるに違いない。受け身であるというのもそれしか最初はできなかったという経験則なのだろうな(という解釈)。

 

そろそろ対外的には自分が固まったとして、能動性を継続していく時期なのかもしれない。ポンコツなのはデフォルトだから、続けていくうちに何か実が付くだろうなというだけ。ここだけは自分を信じている。続けて行くということは単なる継続ではなく、試行していくことだから、単に続けていけばなんとかなるということでもないけれど。

 

 

さておき。

 

仕事。店舗がやや忙しくて研修項目を進められなかった。これに対して焦燥感。焦るのは本能の機能だから、焦らないようにすることはできないのだが、解釈は変えられる。むしろ見習い項目ではなく実務を積めると考えれば、あとが楽になると解釈できる。

 

先輩男子があと一ヵ月弱なのだが、その余裕もあってか、積極的にノウハウを伝授してくれる。ありがたや。本当であればもう少し先で習うはずだろう実務の項目を本日教えてもらったから、誰も対応できない時にお客さんが来てもあくせくしなくて済みそう。研修項目のことはあんまり気にしないで実務的な項目をメインにやっていけば良い。そうしていけば研修項目についてもきっとなんとかなる。店長はマニュアル的なところはあまり教えてくれない。これは見通しが先過ぎて、実務を見据えているから。

 

あと1ヶ月弱くらいの間に先輩男子からできるだけ吸収するようにすると考えれば、研修項目をちまちまやっている暇がないとも言える。店長やら先輩男子が接客中に、作業しながらメモ帳で語録を記録することにした。実際に僕が語用として使えるかは不明だが、残しておくことに越したことはなかろうなと。劇場は対面の相手よりけりで、観劇者からすればちょっと変だなと思うこともあるが、相手に響けば全く問題ない。まぁロープレとかは誰にでも響きやすさを磨くもので有用ではあると思うが、おそらく店長はあんまり実践的でないと思っている気がする。知らんけど。

 

 

そうやって帰って来て。

 

昨日が赤から鍋で、本日は豚キムチの卵とじを所望された。そんなに刺激を欲しているのか。個人的には昨日の赤から鍋のカプサイシンが言葉にできない部分にダメージを与えていたから、本日の豚キムチはちょこっとだけしか食べていない。

 

副菜は満月さんが作ったぬか漬けきゅうりと、僕が作ったたまねぎスライスのオリーブオイルと塩で漬けたマリネと、キャベツと舞茸を茹でて、シーチキンとだし醤油、お酢で和えた残りもの消費料理。これがうまい。

 

満月さんにも上手いかは分からないが、アイスは買ってきているから最終的に美味く収まる。いや、こんなことを書いていると満月さんに僕が尽くしているみたいなニュアンスになるが、満月さんの変化もなかなか凄くて。本日遅めの仕事になった満月さんにワイシャツが無いから洗濯を頼んだら、帰った時には乾いていてなおかつアイロンをかけやすいようにアイロン台に置いてあった。どうやって乾かしたのだろう。

 

あと、洗い物の頻度もずっと増えている。

放っておけば僕がやるのに、あえて減らすってなかなか凄いことでない?

 

大事にされている感じ。

 

 

のろけはともあれ。

 

そろそろ脳内世界へ。

 

noteの文章の更新が多くてほっこり。どんな内容であれ、皆さん生きているというのが読めるのは楽しい。

 

更新ではなくたまたま流れていた記事なのだが、「何も考えていないよね」と言われることについて悩むというか考える文章があって面白かった。面白いというのも不謹慎かもしれないが、それについて考えるということは考えることができる人であるということ。

 

考えるって色んなバリエーションがあって、何も考えていないよねって言われてたしかにそうだと悩まずに居られる人は、ほんとうに考えないで済む人。悪く意味ではなく、そういう性格なだけ。

 

悩む人は、周りの人の考えの速度に合わせられないから、外から見れば考えていないように見えてしまう。速度が遅いのは遅くしないと考えられないことを考えているだけであって、むしろここがほんとうに考えていると言えそうな部分。独自の結論を見出さないといけない項目群はいくら考えてもキリがない。自分とはなんぞやとか、個人とはとか、死とはとか、世界とはとか、、、、。

 

で、考えていないよねという他人に言える人は何を考えているのかを想像すると、思考に使う道具というかカードのことを自分の腑に落とさずに環境に合わせてハイスピードで回しているのだろうと思う。1つ1つのことを腑に落とそうとすれば遅くなってテンポが合わなくなってくるから、あえて腑に落ちない段階でそういうものだとして考えている風を出す。共感的思考と言っても良さげ。

 

考えるというのを問題があってそれに適した解決策を出すということにすれば、早く答えを出せる思考が考えているということになる。この舞台では速度に着いて来られない人は考えていない人というレッテルになる。たしかに、人生は有限だからスピード感をもって生きた方が他に使える時間ができるかもしれない。

 

ただ、僕はこのスピード感は、ごくごく専門的な学問領域以外の膨大な生活圏で過ごすのは色んなことを置き去りにしている感じがするから、あんまり好きではない。もちろん考えるの定義としてはアリ。

 

僕は考えるの定義は前提を疑うところにあるという速度が亀のくらいの歩みのものだと解釈している。たしかに僕も昔は「何も考えていなさそう」と評されてきたものだった。既存のカードを前提にしたら、あとは受け入れるか拒否するかという単なる好き嫌いの話になって、議論の余地がなくなる。そもそも考えについて議論したい人がどれくらい居るのかは知らない。僕もあんまり議論は好きではない。

 

まぁ、誰しも好きに生きれば良いと言うのが大前提にあるのはもちろん。

 

更新された文章の中に性差と個人について考える文章があった。

これも面白くて。男女を2つで分けるという概念に無理が出て来た現在はともかく、一昔前はなかなか「らしさ」が蔓延っていた。僕も別に自分が男らしくあることに対して頓着しなかったから、男だったら云々みたいな風潮にはほとんど同調できなかったのだが、かといって特に違和もないからまぁそっちで良いかという感じ。

 

ただ、現在の多様性の中で、どれだけ多様性を個別に認識できるのかとなるとかなり難しい。個人的な生活圏で言えば、ジェンダーの機微を開示して受け入れてくれると去って行く人を腑分けすれば良いだけだけど、これを社会にまで広げるのはとても難しい。

 

だって、生物構造的には人間はおおまかに2つに分けられて、それは特に問答して内部をいちいち計測する前に見た目でだいたい分かるから。そうなってくると、公衆トイレとかはそこで分けるしかないし、細分化する行政コストが大変。仮にと考えた例がちょっと生生しかったので省略。

 

性別の前に個人であるというのは当たり前のことだけど、そのフィルターなく個人が見られるということは、なんというか枯れないと在れないという気がする。同性に対する嫉妬も異性に対する欲情もあったとしても行動には出さないという人格に至るには余生で生きるくらいの領域では。

 

なんだかここで収めるのは変な終わり方な気がするが、今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。