感覚

 

 

 

21:37から。

 

晩御飯はポトフ。冷凍の肉団子とウインナーと春雨とブロッコリーと人参とキャベツを具材に、キューブコンソメが2つ、生姜チューブと醤油を少々。肉類のだしが良く出ている。

 

満月さんから高熱という連絡が日中やってきた。きっと体が優しいものを求めていたから、朝の時点での要望がこれだったのだろう。

 

特にインフルとかではなないようで、食欲もあってお椀2杯分のポトフを食べられた。何よりのこと。個人的にはたまに出る高熱は身体の機能として邪気のようなものを循環させる正常だと思っている。しんどいのは身体からの澱のようなもので安静に寝ていただけばよかろうと。

 

心配して治るのであればいくらでも心配するのだが、心配は祈りよりきっと無力。ポカリとスーパーカップ(熱が出たときのこれの格別さよ)を買ってきて、ご飯を作るくらいしかできることはない。あとは、寝る前にはやく治りますようにと頭を撫でるくらいか。

 

本日はリビングで寝まする。

 

 

さておき。

 

ちょっと話は変わって、お仕事は随分とピリピリしていた。

成果が全然無い日で、そこの危機感にピンと来ていないナンバー2である先輩女子に店長が一喝(といっても怒号ではない)をして、僕にも若干とばっちり。

 

戦力になってきたと言ってもあくまでまだ見習い段階という縛りがあるし、実務項目ばかりやっている訳にもいかない(という言い訳ができる段階)。そこにかまけていたのかと言われれば是だし、叱られても然るべく。

 

別にドMな訳でもないが、きちんと合理があるお叱りは為になるなと思った次第。

研修項目そっちのけで、ほんとに成果に貢献しないといけないのだなという危機感が伝わってきたし、諸々のハードルを下げることになった。自分がやっても良いのかというのではなく、自分がやるのだという感じでお仕事をすれば良い。そこで失敗したとしてもフォローしてくれる度量があるのが我が店長。

 

逆に考えると、2年働いている先輩女子がなんで2カ月の僕と同じような足踏みをしているのかというのが気になってくる。能動ではなく受動でもお客さんがやってくる店舗が最初だからそうなっているのかも。

 

良い悪いではなく、センスなのだろうなという話。

センスって和訳すれば感覚だったなと今日の出勤のときに思った。

 

これがコモンセンスとかの熟語になると、良識とか常識になるのだが、単語だとあくまで個人の感覚の話。

 

たまたま筆が遅めの面白い文章を書く人がはてなブログの方で更新をしていた。「すべて真夜中の恋人たち」の書評。「女」の感覚満載の美味しい文章。フェミニズムの根底には「女は女として生まれるのではなく、女になるのだ」という誰が主張したか忘れた標語があるというのをこれもたまたま「文学理論」で読んだ。

 

僕は生物学的には男なのだが、男としての感覚はほとんど捨ててきたというか、拾えさえできなかったなという感覚。だから、お母様とか我が母に男で在るようにみたいなことを言われても特にピンと来ない。女としての満月さんを男として支えているということは無いが、満月さんとしての満月さんと、硯個人としての硯が一緒にいる。

 

それは良いとして。

 

この感覚って、五感みたいな物理器官の機能の意味合いで捉えている人が多いと思う。

ただ、個人的には、五感として認知される結果としての現実もかなり創られていると考察する。共感覚的だという話は書いたと思うが、基本的は未分離なものを、現実的に無理矢理器官として分かたれたのが、五感という整理方法であって、これもきっと英訳すればコモンセンスみたいなものになる。

 

といった素朴な感覚だと思っているものさえこれだから、それの集合である○○観になればもはや素朴な感覚とは別物と言っても良いくらい離れている。世界観、人間観、ジェンダー観とか諸々無数に後天的に習得された感覚の束の世界がある。

 

なんだかややこしいようだが、感覚というのは「そうである」ではなく「そうであるべき」というところでできているのだろうなというのが、僕の現在の知見。

 

もちろん、最初の感覚は「あるべき」で括ってもらえないとどう感得すれば分からない混沌になるからまずは既定が必須。ただ、そこで収まってしまうと面白くないという感覚もあって。こっちの方がもともとの感覚っぽいなと。

 

あるべき感覚で生きることが悪いという話ではなく、何かもっと他があるよなというだけ。

例えば素朴な五感で考えても、本日で見た物全部はもちろんのこと、触れた物全部を叙述するって無理だし。潔癖症の方なら意識しているかもしれない。

 

感覚と意識は微妙に違う。一致したらみんな天才になる。

 

色々書いたけれど、結局はあるべき感覚に従うと動きが鈍くなるというハードルを下げていく前向きなこと。この前の母親との通話はハードルが下がった所作だが、あるべきが社会ではなく個人的な感覚だから微妙にこじれている。

 

明日の日記はどうハードルが下がったのかが叙述される予定。

嫌だからしないのではなく、無意識的な恒常性があるべき現実を規定しているだけ。

 

ほんとうにそうなのかというのは今の自分からちょっと疑っているが、その辺は明日の自分に丸投げする。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。