センス

 

 

 

昨日よりさらに10分程早く起きて朝活の量を増やす。窓際で一服していると隣の家の庭でこじんまりした向日葵が2輪、笑っている。思わず朝の身繕い中の満月さんを呼んで元気を共有した。夏が長引いていると人間は過ごしにくいが、向日葵にとっては良い陽気な模様。

 

21:27から。

さらに諸々少しずつ慣れた日。

 

晩御飯。副菜はキャベツ消費のためのツナ缶マヨネーズ和え。レンチンしてちょっと黒酢と黒コショウを加えたくらい。メインは鶏ひき肉をネギやらきのこやらと甘辛く炒めたものを日本蕎麦にかけるというという具体的な要望があった。蕎麦だと消化に良いから夜遅く食べても大丈夫ではとのこと(お母様読んでいますか?)。思いのほか上手く(美味く)できた。

 

ひき肉を炒めて色が変わったら、長ネギの輪切り、玉ねぎのみじん切り、悪くなりそうなひらたけとエリンギを加えて少し炒めて、水を投入。ほんだし、醤油、砂糖、豆板醤を加えてアイロンがけをしながら煮詰めた後、水溶き片栗粉を加えてあんかけ風に。太めのゆで蕎麦しかなかったが、これがまた良い塩梅にあんかけと絡む。

 

料理にも慣れてきている。

 

遡って、お仕事。

 

昨日に比べると新規項目は少なかった。出勤してすぐに車で50分ほどかかる山奥に行って森成分を摂取。よそ見0.3秒くらいでちらちらと風景に生えている彼岸花が目に美味しい。渓谷の下に流れる川にも風情がある。

 

みんな制限速度から10キロ越え未満くらいで走ろうよと思う。この速度帯で走っていると後ろが詰まってきてなんとなくざわざわしてしまうし。あと「弱虫ペダル」みたいな細い自転車で走っている人が多かった。横を通り過ぎるとき、結構恐ろしい。大きめの石とか踏んじゃうと10円玉くらいの接地面だとよろけてしまうだろうし。まぁ、あの速度で歩道を走ってしまうと歩行者が危ないから仕方ないのも分かるのだが。

 

帰って来てからは、あまり動きがない。ちまちまとデスクワークをする時間も大事だが、デスクワークは平日にするべきという感覚も分かる。本来暇になってはいけない時間に隙間があるということ。

 

店長から、(先輩女子より)営業のセンスがあるから頼むよと言われた。センスはどうしようもないとも。ここで言うセンスがどういうものなのかは言語化できないのだろうな。無理矢理言語化するなら、想像力と人柄なのではという感じ。人柄は分かり易いが、想像力だって知識を具体として積み上げられない人であれば、どれだけ積み上げたところで、同じような物事にしか対応できないし。

 

人柄が営業に向いているかもしれないというのは、僕が「聞く人」だからという可能性がある。これは村上春樹作品(特に短編集)に出てくる、変な話にも傾聴するから常識外の話が収集されるという人格ということ。

 

店長曰く、最初の5分で営業は決まって、そこで打ち解けることができれば一見仕事に使える情報ではない本音が出てきて、実はそれが本質的な要望に繋がっていることがあるという。この人なら色々話しても大丈夫かなと思わせることに営業スキルないしセンスがあるって。

 

たしかに、これで言えば僕はあんまり技術的なことをしなくても話して大丈夫と思わせる雰囲気があるのかもしれない。本日行った山奥であったお客さんも、特にあえて聞かなくても、実は趣味でコーヒー豆の焙煎をやっていて、いずれネット販売とか店頭販売に繋げていければなぁと友達に話すようなことを話してくれた。これに対して僕はなるほどと答えるのだが、自然と尊重して傾聴しているから、特に悪印象は持たれていない(はず)。ここが本質的な要望だと把握できれば提案できる商品もブレないということ。

 

現実的ではないということを理由に突っぱねることはないし。

 

こういうのがこの仕事に必要なセンスと呼ばれるものだとすれば、向いている。別方向から満月さんにも昨日向いているかもしれないと言われたが、こちらは想像力の話。違和感にピンと来るというか、年の功で察することができそうだねと。

 

同じ方向しか積んでいない年の功は縦には強いが横には弱い。僕の人生劇場上の紆余曲折は他人の事情を察する為にあった。いや、単なる迷子する質だったというだけだが。まだ3ヵ月も働いてない職場だが、先輩女子の経験値は早々に越えていくかもしれない。越えたいという意志がある訳でなく、速度感として勝手にというだけ。

 

相対指標での人生劇場で生きるつもりはもはやないから、相対として捉えたい人はどうぞご勝手にとなる。先輩女子も結構絶対だから、僕が追い抜いたとしてもきっと仕事が楽になったという感じになる。

 

 

やれやれ。

 

昨日の最後に書き切れていないところ。

 

「文学理論」と「言葉と時間」が良い感じに交わっている。

 

「言葉と時間」では、ギヨームさんが何故フランス語で研究したかという下りがあった。曰く、フランス語が母国語だからではなく、フランス語は抽象に耐えられる言語体系だからとのこと。「抽象は1つだが具体は多数ある」というフレーズにきゅんときた。抽象は要約とは違うし、具体の集合体でもない。

 

「文学理論」では、人が世界を認識する形式の話。五感がそれぞれ別個として感得すると思われているのは、そうあるべきだという後付けで習得されたことで、本来の知覚は共感覚的だと言う話が出てくる。共感覚って現代では異常と思われていそうだが、そもそも客観的な現実は五感の複数が一致しているという前提がある。この前提って説明必要かな。必要だとしても省略。

 

例えば、リズムが良い文章だと読むと聞くが連動して心地いい。これって聴覚と視覚が連動している。味覚と視覚が連動するの古文由来だろうし、五感が分かたれていないというのがここで言う現実。

 

現実と客観がニアリーイコールなのは、客観は感覚的な集合ではなくて、社会として証拠を呈示できるかという話。情報源(ソース)を気にする人は客観を大事にしているが、あくまで神の目線からの真実みたいなことではない。客観が現実だとしている人は、自分の共感覚的な五感を等閑にしている可能性があるのか。

 

この矛盾を解消する方法としては、現実と客観は別物だと把握するのが良いのかも。

別に人間は矛盾しているから人間であって問題はないけど、人に現実やら客観を主張するときには気にしたほうが良いような。

 

日本語は抽象に耐えられる言語なのかというと微妙なところだが、せっかく同じようなことでも指し示す言葉がたくさんあるのだから、使い分けた方が面白いのだろうなと思う。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。