進撃

 

 

 

当初の予定だと本日に荷造りは終えていたのだが、身体が重くて夕方までずっと寝ていた。深夜まで寝ていて体力回復という説と、母親との通話で削られた気力回復という説と。満月さんは後者の説。たしかに昨日は昼から3人でお出かけできていたし前者の説は薄い。

 

 

この重い感じって、実家で生きていた頃に近いのだよな。凄く眠くて活字が読めない。漫画は読めるしゲームはできる。要は逃避としての遊び。身体が覚えている。よくこんな感じで選抜クラスの中間くらいだったなと思う。喫緊2年前くらいまでの資格試験のお勉強をしていた頃までこの世界観だった。何も覚えられねぇし世界がくすんでいる。第三者が勝手に調整しているという感じ。

 

この叙述だと思春期こじらせて一般的な社会観に適用できない未統合な人格だったという感じに捉えられそうだが、そういうのとも少し違う。未統合でも良いし、統合された人格も空想上の産物というか概念でしかないと分かったことによって、特に自意識を決めなくて良いとなっている。人の内部って損なわれるような存在ではないのではないかという仮説で生きて良いから投げっぱなしで良いし、他者からの承認をエネルギーにしないでも良い。

 

 

荷造りが終わるかという不安もこの残滓で、一般論とは別の経験則だと間に合わないことはない。この感覚は自分より外から来ている。自信って別に無根拠でただ生きているくらいで良いような。よくここまで生きてきたくらいで重畳。

 

もう少し細かめの世界観。

最初の生活圏が不自由だったから、僕は家から出たかった訳でもないのだろうなと思った。送別会で、高知出身の同期も何処かに出たかったから大阪に出てきたかったと言っていたが、ここでいう都会の自由さを求めていたという理由ではなさそう。

 

現時点の解釈だと、母親の世界観に含まれた自分から離脱したかったのだと思う。全然ホームシックはなくて、長期休みは帰省するものだとされていたから帰っていただけの感じ。僕の素朴ではなく、世界とはそういうものだという世界観なだけ。

 

満月さんが的確に解釈していたのだが、母親の世界観として卑屈になっている訳ではなくて、その卑屈さを示していれば相手が自分にとって都合良く動いてくれるみたいな人のコントロール方法に味を占めている。言葉が文字通りではないというかまってちゃん。これは怒気でも同じこと。人間の怒りは自然。赤ちゃんだってできるし。ただ、これって世界に対して駄々をこねて誰かが助けてくれることを求める感情ではないかと思う次第。怒りに合わせて都合良く世界が動いてくれるという子供染みた感情。別にそれはそれで良いけど、それでお手軽に僕が動くと思われるのはちょっと心外ではある。

 

別に言葉を尽くしてより良い方向にみたいなことでもない。たしかに言葉で文字通りの要求をする方が理性的ではあるが、人って自分の発信に対しては敏感だけど、他人の発言に対しては自分の世界観に馴染む限りというところがありそう。

 

人は文学理論を学ぶべき。

(てきとー)

 

僕が母親の他人のコントール方法を嫌悪するのは、自分も人間関係ってそういうものなのだって使っていた時期があるから。世界はそういうものだという学習の最初がこれだから仕方ないにしろ、素朴な僕とはかけ離れていてしんどかったのはたしか。僕をより使おうとしている人が愛なのではという下りにもなる。いわゆる共依存というやつ。

 

村上さんの小説ファンだが、自分の穴を他人が埋めてくれるという世界観は違うよな。

 

この解釈からすると、僕がせっせとこつこつ料理スキルを磨いていた意味が少し分かる。パートナーに役割分担として調理を全部やってもらうのは違うよなという最初の世界観の更新であって、健康管理を他者に投げるようにするパートナー関係はどうも違うという疑義。

 

最初から義務的に料理を手伝わされていたらまた違った考えになったかもしれない。少なくとも今や、料理は女性がするべきみたいな感覚はない。この感覚は時系列で人が教えてくれた訳ではなく自分で開拓できたもの。飲み会でむかーしそういう話があって、パートナーが作った料理に文句を言うかどうかみたいなことから始まる。いや、そもそもそれが当たり前という世界観自体がズレているなんて感覚も当時はなかったが、違和感だけあった。

 

生活の不備をパートナーで補完するというのはもちろん問題ない。完璧な人間なんて存在しないし、交換しながら生活していくという節。現代でも当然残っている家同士の結合としての結婚も、ある社会においては片一方の性だけでは成り立たないという世界観だし、これ自体は変な話、退場防止みたいな施策もあると思う。現世の苦しみを義務で逃避するみたいな。

 

母親の世界観はまさにこれで、あくまで自分が苦しんで生きてきたという卑屈的な世界観。自分ができなかった世界線を、子供の為に投げうったみたいな美談に仕立挙げている。個人的には父親の退場に対して他人事とできているのはどうなのだという感じだが、別に当人の世界観に対してどうこう言うつもりもない。

 

この世界観に巻き込まれないためには、僕の世界観で上塗りするというか、暗さに合わせないこと。かまってちゃんが構われたいよりもっと構ってしまえばきっと煩わしくなるだろうし。

 

 

問題はあくまで自分の世界がどうなのだということ。

 

僕の素朴はあくまで自分は自分、他人は他人であって自分ができないことを補充してくれる生活圏のパートナーなんて要らないらしい。このちゃんと自分で生きられるようになるために10年くらいかかっている。その上で一緒に居て楽しい他人として現われたのが満月さん。昨日の日記でスキをしてくれた人が居たから書いている記事を読みに行ってみたのだが、パートナーさんをステータスみたいに扱っている節があって、全然違う。世界一とか相対評価で捉えて居たらそのうちインフレして宇宙一が出てくる可能性がある。

 

これって実際は苦肉の策めいたものがある。自分にとって都合の良さがある人を引き寄せる人格ではあるから、都合の良さを潰してちゃんと相手を認識するために自分でだいたい完結できるようにしているという説。ここまで来てやっと自分を搾取せずにただ好意を抱いてくれるだけの人が認識できるようになる。

 

性的消費はよく分からない概念だが、僕もそこそこ良い見てくれで生まれてきたものだから、色々あった。同性にも性的に好かれるとか。ただ、これに対して自分が消費されているという感覚は全くない。世界線が違うと言えばそれまでだが、消費されているのは素朴な当人ではなく、単なる当人が持っている属性としての要素なような。その要素から外れたら消費されなくなるが、それはそれで気に食わないのがこれを語っている論者のイメージ。

 

アイコンと実体の乖離なのかどうかは知らないが、アイコンを利用しながらそれに対していやらしい視線が来たらキモチワルイとなるのは矛盾している。当人の実体の自意識がきちんとアイコン外にあったらそんな視線なんてどうでも良いとなりそうなはずだが。

 

 

母親と話していて自分が発話した言葉が言葉通りに解釈されていないのは常々。だから話したくない。テクストとしての言語って意図通りに伝わるはずもないという世界観。

 

弟さんがビールを飲んだら良く話すというのも、一種のポーズなのだろうな。

酔っぱらいの発言は特に人格と連結していないというイメージがあるから自由に話せる。

ミソは、話せるかどうかを人格の中心に置いていないところ。

言語的な情報は安心とか安心をもたらすけど、個別的な個人は事務的な文字情報では分からなくて、きちんと自分の目と判断で決めるしかない。

 

という意味で僕の目で見たとき、満月さん一家の人は素朴な僕で居て問題ないのだろうなという感じ。我が家の親戚筋は母親の目があるから難しい。仮にお祖母ちゃんに電話したら、その情報が母親に伝わって嫉妬する可能性もあるし。いや、お祖母ちゃんには報告したくなってきた。

 

僕が割とどの時系列でも愛されてきた人格なのは、無関係の中で生きている素朴だったからかもしれない。あんまり社会観に縛られていなかった。仙人とか星人とか大臣とか色々あだ名はあったし、誰かの世界観に足を引っぱられたり水を差されたりしたが、僕はあくまで僕でしか無かった。

 

その為の読書だったのかという感もありつつ、なんだかんだ何にも流されなかった自分に素晴らしさを認定する。僕で生まれなかったらこんな人生は辿れなかった。

 

まだまだ楽しむぞい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。