転調

 

 

 

21:14から。

 

 

本日は満月さんが会社の研修で泊まりなもんでお一人様お刺身コース。割引でも至上な美味しさなのは、空腹時間がながかった。この話はまた後で。

 

 

満月さんの循環はとても早く、1日休息したら微熱よりもっと低い体温まで正常化していた。9時に僕が出勤する際、発熱外来の予約を取ろうとしていたのだが、目の前の病院は予約がいっぱいだと断わられていた。発熱の外来なのに? いっぱい? と意味不明な感じになる。その後ちろっと調べたら、発熱があって病院に行こうと思ったら予約待ちで2,3日になるというが一番上に来ていたから、結構ざらにあるのかもしれない。僕は病院に行かない人なので、あまり分からないのだが。発熱しても1日だけ高温になって次の日には平熱だから、もろもろを疑う余地がない。

 

ここで、この事象をどう解釈するかの考察。

 

発熱している人が増えているから病院が満杯になっているというのは論理的な考えではあるのだが、これだと考察不足というか、考えていない。雨が降ったら傘を差す人が増えると同じで、ただ観察をしていることを考えていると勘違いしているだけ。別にディスってはいない、念のため。

 

発熱したら病院に行くという論理には、実は隠れた前提がある。発熱したら病院に行って診断する必要があるというある意味当たり前過ぎて死角になっているから隠れていること。ここで考えるのは、ほんとうに発熱している人が増えているのかということ。病院が満杯なことと発熱している人が増えていることはほんとに因果関係があるのかとなると、んなことはない。

 

データとして裏付けを取るとすればもっと詰めないといけないけれど、別に統計学の論文を書いている訳ではないから、想像で考察しても構わない。ある意味当て勘なだけだが、これって、発熱したら病院に行かなければならないという常識が構築されたからだよなと。もちろん、禍とされているあのアレのせい。

 

(個人的にはそれほどでもないという感覚だから、一度も打っていない。安全ではなく安心の為だろうなって。もちろん安心も大事)

 

となってくると、この時代の前、微熱発熱が生じても市販の解熱剤を飲んで無理矢理日常を過ごしていた人が多かっただけで、平熱より体温が上昇している人の絶対数はこの禍の前後でそれほど変わっていない気がする。実際のところ、単なる発熱は病院に行っても治らなくて、栄養摂取して休養するしかないと思う。二日酔いと似ている。こちらは栄養ではなく水分だが。

 

発熱は抑えない方が免疫力の関係でよろしかろうと思うけども、熱が高くなるとやっぱり苦しいから、対処療法的に抑えた方が良いと思っちゃうのかなというのに追加して、いまの時代は病院に行って発熱の原因を特定して貰わないと仕事に支障が生じるというのがあるから、余計病院に行く人が増えるしかない。

 

という感じなのが僕の思考なので、あんまり終末観がない。

だから邪気溜まらんなのか。

 

あるがままに物事を見ることと、内部でそれをどう解釈するか別事。

あるがままとすることはそもそも感覚にフィルターがかかっているから無理ゲーであって、芸術領域にしかない。日常だと、鵜呑みにしないことが大事。

 

 

 

さておき。

 

ちょっとお仕事の話。

 

本日も成果が実った。先輩女子がお休みで、店長と2人。

何故かかなり忙しくて、店長が他の仕事にかかりきりになっている中で1人お客様に対応することになって、逆にハードルが下がる。自分ができることしかできないわと。

 

店長が采配してくれたお客様が良い人だったからなんとかなった。

 

ただ、僕はやっぱり人話を聞く(読む)ことが好きなんだなと想う。もちろんお仕事だから、あまり脱線しないようにはするのだけども、お客様が実際そこで生活することになったらどうなるのかということまで想像してしまうから、不備がなさそうかが気になる。知識が増えていけばもっと材料を発話できるのだろうけども、結局は、安心が大事。

 

僕がこのお仕事に向いている材料がもう1つ。

 

素朴にお金自体に特に価値を置いていないところ。お金って持っていたら安心だという感覚を持っている人がほとんどだし、減ったら不安という価値観がある人が多いと思うし、その価値観は尊重するのは当たり前だが、お金を使って安心を買うということも尊重すべき価値観ということはありうる。保険だって年金だってそういうことでは。

 

ここで言う価値というのは、何を優先するかという話。

僕の素朴がお金を持っているということが至上だという優先順位だったら、相手のお金を減らすような提案は悪だとなる。でも、お金を持っていることは完全な安心には特にならないという価値観だから、別の優先順位が提案できる。

 

お金に安心を委譲している人は、持っているよりむしろ使った方が安心できるということもありうる。もともとお金って、何か別の物と交換できるという可能性の概念だから可能性を保持していたところで、安心は無いと思うんだよな。

 

もちろん、僕は自分の営業成績を優先順位にはしないからごりごりにはやらないけども。お金を節約することは他の可能性を保持できるけども、可能性自体が不安定なものだから、なかなか安穏とはできないような気がする。まぁ、それを楽しめるのであれば何も言う事は無い。僕もその界隈に首を突っ込んで楽しんで行きたいところ。

 

 

どうでも良いけれど、本日お客様を同乗させて先輩男子が横に乗ってくれた車が多すぎである意味トラウマの辺りに行ってきた。ただ、いまの目線で見たら、なんというか、ただ道が広いだけで、右折をナビが示していたら、車が少ない早々に右側の車線に移っておけばいいだけなと。全然大したことがなかった。ルールさえ把握できればあとは流れに乗るだけ。いや、なかなかやばいバーキングしかなくて、イライラするお客様だったら怒られ案件になる可能性はあった。前向きにしか停められないのに、道路からすぐで、出るときに危険極まりない。

 

まぁ、こうやって世界に対する不安が拭われていくのだろうなという世界観。

 

あの駅界隈では住みたくないが、住んでも良い人も居るというのが多様性。

それを自分の価値観で否定しないで居られるのがこのお仕事での資質なのではという感じ。どれだけ言葉で繕ったとしても人って敏感だから、もっと非言語を読んでいる気がする。

 

店長から早々にナンバー2になれるというお墨付きをいただいた。知識は劣っているから諸々フォローしていただいているが、知識が後から追い付いてくればもっと色々動けるなぁと楽しんでいる。

 

知識だって、保持するものではなく、使うもの。

 

 

 

本日は延長戦か。

 

ベビーとかライトとかという世界観はないのだが、ちょっとヲタクっぽい話を書きたい気分。これが純文学だったらヘビーになるのかもしれない。純文学って文字情報に快楽を感じられるかどうかだから、いまの時代だと、全然伝播できないと思われる。Xとかブログとかも結局のところ文字を味わっているのではなく、眺めるように見ているだけだから、目に違和感が無い言葉が好まれる。

 

個人的には純文学も大好物なのだが、言語化したところであんまり眺められないだろうなという感じ。あの時代の文豪で言うと、坂口安吾さんがお好み。

 

やはり、いまだと視覚に価値があるから、ドラマなりアニメなりが強い。

VIVANTの最終回も面白かった。どんでんでん返し過ぎるから、後続があるとすればもっとややこしくなりそう。

 

まどか☆マギカは美少女魔法少女系で、岡田さんの言だとちょっと馬鹿にならないと見られないということだが、個人的には深いなぁと思っている。フォルムで言えば、ほむらちゃんが美少女であると評される意味が分からないところではある。登場人物須らく美少女だろうって。セーラームーンもしくはジャニーズみたいな、推しはお好み。

 

お話の話だと、戯曲が下敷きにあるらしい。

ファウストとかくるみ割り人形とか、原作は知らないけども、戯曲って登場人物と観劇者に隔たりがあるというのが本質的な構造だと思う。そとから見て楽しんでねと思わせて、内部に侵食してくるのがほんとに面白い作品。

 

満月さんも好きっぽいから、新作映画は見てきまする。僕が見たいだけに付き合ってくれている説もある。

 

 

そろそろまとめないと収まらないか。

 

僕が楽しく生きているのはある意味お一人様みたいな人生劇場ではあるのだが、楽しく生きて行って良いのだというのは、あくまで相対的なもので、満月さんがパートナーで無かったらなかったと思われる。

 

僕は変な話、機能的には結構有能。この機能だけを価値すれば市場価値はまぁまぁあると思う。ついでに特に相手に自分の都合を求めないから、可能性はいまだにいっぱいあると思う。

 

ただ、満月さんが凄いのは、僕と過ごすことによっていままでとは変わっているところ。して欲しいと指示した訳でもないのに、自発的に。指示して動けるのは操縦しているだけだからつまらない。

 

僕と過ごしていけられるのはこういう人なのだろうな。

 

なんだかのろけで終わるのだが、これで良かったっけ。

 

まぁ良いか。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。