すかすか
21:17から。
遅めの出勤の満月さんが晩御飯の用意をしておいてくれたおかけでとても早い。煮豚と海鮮サラダの具材と、茄子とアスパラの揚げ浸し。どれもとても美味しい。僕がしたのはサラダの具材をよそって、付いていた塩レモンオリーブオイルドレッシングを黒酢と醤油を加えて水増ししたくらい。別売りのベビーリーフサラダがあったもんで、添付のドレッシングだけでは足りないだろうなと。
さておき。
いっぱいいっぱいだった嵩が減った1日。
準備が追い付かなかった心配事は出勤早々に店長に報告してフォローしてもらった。欲って置かれ気味だからこちらから働きかけないといけないが、言った分はきちんとフォローしていただける。言わずにぎりぎりまで1人で留め置く方がよほど悪いと公言している店長はとても良い上司だと思う。
終わってしまえば結構なんとかなった。
凄く優しいお客様だし。厳密には優しいというより、どうでも良い項目がむちゃくちゃ多い人。これを人は優しいと呼ぶのかもしれないが、優しく見える人が優しい訳でもない。「ミステリという勿れ」の映画の犯人が、焼き芋の大きい方をヒロインの女子高生に毎回あげていたみたいに。
本当の優しさは、相手の為に優先順位を覆せることであって、優しいとされることをしてくれる人でもないような。外向きでは紳士な人が、内側では攻撃的になる場合、外から見れば優しい人だけど、トータルで見ればそうでもない。
店長はもっと前もって準備しようかとは言わなかった。可能ではないことを強いない。逆に他に諸々言われていることは、店長にとって僕には可能だと認識されているということなのか。
早々にナンバー2になるとは当然として、常識的な肌感覚レーダーに結構信頼が置かれている模様。感覚的にヤバイかどうかを把握しつつ、ぎりぎりを攻めるような手法ができるようになるという展望があるみたい。たしかに、僕の素は先輩女子より店長寄りだという自覚はあるから、練度を高めればなんとかできそう。類としてのヒトを統計的に捉えるのはかなり苦手だが、実際関係する個人と関わることは好きだし、誰に対しても同じように関わることはもともとできない。
結局どんなお仕事もだいたい人と人の個人的な関わりが繋がっているものだと捉えれば、どれだけ統計的な良さ(さっき書いた優しさみたいなもの)を突き詰めても成果に直結はしないような。いや、予防線としては最低限なことだから、職業的な領域で練度を高める必要がある項目ではある。マナーはそのマナーが通用する所では玄関で靴を脱ぐレベルの所作だと思うし。
店長は仕事のトークでは大言壮語だから、僕に対する言もそんなところなのかなと思っていたが、僕におべっか使っても僕のお尻に火が付く訳ではないのは経験則上の統計で把握しているだろうし、割と本音かもしれないなと思ってきた次第。
「もう見習い期間終わったから、自分を新人だと思わないように」と言われたし。これは普通だとまだ研修期間終わっていないのにそんなことを言われてもという感じになりそうだが、個人的にはとても嬉しい言葉。研修項目気にしなくて良いという言質をいただいたから、あとは仕事に直結するお仕事をするようにすれば良い。枷が外れた方がより動けるのが僕なのは自己の経験則で知っている。
店長は単なる上司というより、並んで一緒にお仕事で遊べるようになりたいという認識。
遊びは完全な自由では在り得なくて、最低限のルールがあるからこそできること。
やれやれ。
心配事が取り除かれて随分スッキリしている。
脳の容量を占めていたことが無くなって安心ということもあるけれど、無くなっただけでは容量が前後でが変わらないから、個人的にはスッキリにはならない。それが無くなった後にむしろ容量が増えているといういっぱいいっぱいさが、スッキリに至る負荷なのだろうな。適度なストレスとも言う。
「フリーター、家を買う」というドラマを今更ながら見ているのだが、1話でお母さんがうつ病になったシーンを見て、こういう脳の容量の占められ方はストレスとして重度過ぎて、取り除くには逃げるしかないなと思う。周りから見れば(お父さんとか)、大したことないと評されるものではある。仕事の方が主婦の付き合いより負荷がかからないというのは良く言われることだが、仕事の場合はどれだけ負荷がかかったとしても返って来るものがあるし、割と通り過ぎていく。主婦の近所付き合いは良いように振る舞ったとて継続しかないし、何も現実的に返って来るものではないし、何より通り過ぎられないという違いがある。1回失敗して何か悪印象が伝わってしまったら、なかなかプラス方向に転換はできにくい。
仕事は失敗しても成果でリカバリーできる形而下の問題だけど、近所付き合いは形而上の印象の問題だし、むしろ人間力が試されるのは後者だと想像する。
あ、形而上と形而下は、形があるものが下で、ないものが上という意味で書いています。
うつ病に焦点を当てても結構微妙な話題だからなんとも言えないけども、あえて突っ込んでみる。
ストレスを取り除くのが良いとドラマでは言われていたけれど、そのストレスって外の観測者から見れば、結構取るに足らない。だいたい逃げられるところではあると思うだが、そもそも逃げるという選択肢が出てこないいっぱいいっぱいの視野狭窄になっている。人間関係だって嫌なものは切れば良いし、その場所に居ないといけない義務は人にはない。
ただ、精神的にも恒常性(ホメオスタシス)が働いているから、どれだけ辛くてもそれがデフォルトになってしまう機能がある。このデフォルトが自己を評価する人格と直結していることもあるから、変化してしまうと自分であると思っていた従来の自分では無くなってしまうというデメリット。
ドラマで言うと、お父さんの認識でのストレスは自分外のことで、うつ病になったお母さんのストレスは自分内のこと。もう少し分析すると、自分外のことにしかストレスがない人は、あんまり自己を分析する機会が無かったのかもしれない。無いというかあんまり見えていないというか、ここら辺は曖昧。
視界が動くというか、遊んでいれば外向的だろうが内向的だろうがまなざしが自己を動揺させると思う。動揺は変化の兆し。
色々書いてきたのだけど、ここからが本題だったりする。
本日心配事が無くなった余白で本を読んだ。この余白時間を拡張してくれた満月さんに感謝。
何か追加したいなと、書庫を探って「1973年のピンボール」を見つけた。
村上春樹さん。本の醍醐味は、読んだタイミングで読み取れる内容が変わってくること。
変な話、村上さんの小説って、言葉がすかすかな感じがある。いや、筋は書かれているし文字通り読んでも物語として読めるのはプロだから当然だけども、余白が半端ない。その余白に何を入れるのかによって好き好きがあるのかもという仮説が浮かぶ。満月さんは最新作を全然読み進められないと言っているが、これは余白に読みにくい当人の自己が入って来るからかも。
例えば、ワタナベは直子をほんとうに愛していたのかという命題。文章上では主人公が愛していたと言っているから、文字通りに読めばそりゃあ愛していたからこれだけ記憶に残っていたのだろうと読むしかないのだが、なんだか、もしかしたら退場してしまった直子に対する贖罪というか祈りの文言と読み取れるような余白もあるような。
井戸が分かり易いテーマだけど、女性に対するスポイルという感覚もまぁまぁあるような。
甘やかされて生きてきたから感覚がズレているみたいな感じだったと思うが、直子はそういうメタファーの極致としての存在なのかも。緑は甘やかされなかった人。どちらかというと、行為としての愛は緑に向いているような。
別に作者本人もどちらがどうみたいに書いていないと思っている。
そういう意味での余白。文字を辿って行けば物語のレールが敷いてあって終着点に至れるという風な読書家とはきっと相性が悪い。
言葉には言葉で構築された空間外の余白があるという手法の極致が詩人なのだろうなと。
詩の世界観はまだあまり分かっていないけども、選んだ言葉の組み合わせで世界が縮んだり拡がったりするのだろうなというのは分かってきた。今度詩を読む時は書き手が何処に居るのかを気にしながら読んでみよう。
そんなことはどんな文章でも普通にあることか。
僕の文章世界が拡がっているのか縮んでいるのかは読み手に委ねているという感じ。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。