けんぴ

 

 

22:16から。

 

なかなか押している。ちょっと放り投げた芋けんぴに謝れと責められながら。

2人の間に子供が生まれたら、芋けんぴの生まれ変わりでけんぴと名付けるらしい。

 

芋といえば、超いも理論を提唱している人の記事を読んだのだが、面白かった。科学でも宗教でも既存の価値体系で宇宙全てに辻褄が合うように説明できないのだから、そこにいもがあっても良い。超ひも理論をもじっているのだろうけども、個人的には世界を楽しく調和的に解釈できるのであれば、どんな理論であっても良いと思う。

 

なんだか本日は冒頭からバグっている模様。

 

 

さておき。

 

本日は満月さんの車検だったから、朝から遠出して、そのあと書けない空白を過ごし(どう埋めるかは読み手の自由)、夜ご飯に焼肉を食べて帰って来た。本当は試験勉強をしたかった気もするが、ほんとうにしたかったらたぶん無理矢理その時間を確保するから、ということは、それほどそこを守ろうとしていないのだろうなとなる。

 

自分が大事にしていない時間に対して、それができなかったことで世界を責めるのは合理化ではあるが、自他的にとばっちりだと思う。無い物ねだりではなくて、なんだっけ。隣りの柿は甘いみたいなやつ。逃した魚はでかかったと思い込む、だったか。どうせ酸っぱかったんだと思うイソップ物語だっけの負け惜しみの方がマシなような。

 

なんだかんだ日記時間は確保できているのだから、ほんとうにしたければ、やりくりしたり譲らなかったりしてその時間を作ることができる。それを確保させてくれない人とは相性が合わないというだけ。

 

直近の資格試験対しては受かっても受からなくてもどっちでも良いが、受かった方が面白いというモチベーションの方が良さげ。大事という価値で測ると、他の事を全部捨てるみたいなことになるし、そこまで削っても確実に受かるかどうかは分からない。体調とか調子とかもあって、1発勝負はなかなか大変。

 

本番に弱い家系らしいから、本番だと思わずにやれるように舞台を調整した方が良さげ。

なんなら、どんな瞬間も本番であるとして見た方が良いのかも。

 

良い悪いを礼儀に適っているとか不謹慎の括りで捉えない。

あくまで内部に限りだけども。

 

 

まぁ、内部が世界の在りようを決定するというのが自説だから、世界はいくらでも改変されていく。

 

変な話、どれだけ生きていたとしても世の中の全てを知ることはできないから、知らないことの領域は死ぬまで無くならない。だから、知っていることをどうやりくりするかより、知らないことをどう扱うかの話になってくる。

 

もっと変な話だと、人は自身のことも一生完全には把握できないという説。だって、意識できない自律神経とか内臓の動きで賄われている領域は診断とか検診しないと分からないし。

 

これで言ったら、自分の感情的な調子だって、自己では完全に掌握できない。

 

あんまりないない言っていると否定的な言霊になりそうだが、ないから可能だという肯定的な話。哲学書とか法律書で、「できる」ではなく「可能」が使われていることが多い気がするのだが、これって微妙にニュアンスが違うからだろうな。厳密な定義付けがあるかは不明。おそらくできるは主観で、可能は客観なのかなと。

 

古文だと、助動詞の「べし」とか「む」とか、文脈によって変わってくるというところで、古文時代の文章層は空気を読むのに長けていたというか、それを読めるからこそエリート層になりえたのかもと想像する。論理的ではないという意味ではすかすかで余白満載の文字のやり取りはさぞかし楽しかっただろうなって。

 

今古文が読めるかは不明だが、高校国語に出てくる古文の文章は何故かなんとなく読めていた。なんなら漢文も。自分が何故それを解けているのかもよく分からず。現文はテクニックを修練した気がする。

 

読めると書けるは別事。

読んでいると良く出てくる漢字は当然読めるけども、実際書くとなると話が変わってくる。

僕の文章の中に一般的に読めない漢字はないと思っているが、どうなのだろう。書けない漢字も、たぶんないか。躊躇とか憂鬱か画数多い漢字になると割とヤバイ。憂鬱の方は高校時代に練習したことがあって未だに書けると思う。※が入っている漢字はなかなかない。

 

 

今日はこの辺にしておく。

 

自分の文章って、自分が読めるように書いているから読み返すまでもない。

読み易さは贔屓目だから、外から見れば、よくこんな文章を読めているなと勝手に凄いと思っている。なにせ別に伝わるように書く気はなく、単になんとなく整地しているだけだし。

 

読んでくれている方々に感謝というのがない訳でもない。

観測者が無いと存在できないのが文章体だし。ただ、だからと言って、読まれないと存在できないなるとニュアンスが変わってくる。

 

読まれなくても良いけれど、読んでくれる人が居るというのは楽しいことだなというだけなので、徴も特にイラナイ。僕は読んている人の文章には徴を付けるけども、付けられたいから付けているという連動もないし。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。