頭の中に物は無い
21:00から。
たまたまぴったりの開始。これが終わったあと、勘を繋げるためにもう1年分過去問解いておいた方が良いのではないかという満月さんからの提案があり、なかなかスケジュールが詰まっている。
たしかに勘は毎日やってこそ磨かれる。仕事で良く「考えろ」というアドバイスをする人が居るけども、これもほぼ毎日やってきて培った不文の勘を言っているだけであって、考えてどうにかなる問題ではないのではないかという説。具体的にどう考えているのですかって聞いて言語化してくれるようであればそれは「考え」だけど、その言語化の中に聞き手にはその時点ではどうしようもない知識が入ってきていても聞き手にとってはその思考は不可能になる。
考えるのか覚えるのか行動するのかを一緒くたにしている人がなかなか多そうな。
知らんけど。
さておき。
本日は、満月さんが休みだったもんで、弁当にホットサンドを作っていただく。昨日作っていた鶏ハムが入っていて、ボリューミーで美味し。帰ってきて残っていた鶏ハムをベビーリーフサラダに乗せてオリーブオイルベースのドレッシングをかけたのだが、これもまた美味し。
お仕事は、事務作業日。僕の作業スピードがまだ遅いのはなんとなく分かってきたが、当てられている作業量が多すぎるのではという気もしてきた。全然追いつかないというか、終わったと思ったら次の作業が沸いてくるし、なんなら自分のお客様ももう居て、そちらのやり取りもあるし。
いや、お客様に対するお仕事は作業ではない。なんだかお客様の人格にすげぇ助けられている感じ。僕の不備というか失念なのに、自分の不備にしてくれて、「忙しいところお仕事増やしてごめんね」みたいなことを言ってくれる。こちらこそ拙くて申し訳ねぇです。
恵まれていてありがたや。
新人だから最初から回って来ていただいたお客様以外は途中からつまみ食いみたいな関わりしかできず、なんとなく方針があるのだろうなと出しゃばらないように意識していて、情報があんまりない状態でやっているのだが、最初からの人との関係は結構良好な感じ。
自立して途中からのつまみ食い的な関係が無くなれば自分のお客様に傾注できるようになるし、このパンク気味は解消するのかもしれない。最初が自分でないと、粗相がないようにという感覚が勝ってしまう。
まぁ、粗相は今のうちにできるだけやって食べて経験値にした方が良い気もするから、聞けることは全部聞いて、恥をかきながらもうちょっと下積みしていけば良いのか。かいた恥は次にはかかないようにできる。指摘されたことはすぐ直していこう。
資料整理が現状壊滅的だが、意識してやっていればそのうちなんとかなる。自分の頭の中は整理しない方がぱっと手に取れるというスタンスなもんで、これを現実化すると整理できない人間になる。中学校の国語の先生が「机上の整理は頭脳の整理」と言っていて、そうなのかと当時は思ったが、個人的にはそんなことにはならない。頭の中が物理空間で情報がその空間を占める物だとすれば机上と頭脳は連動されるけども、実際は頭の中に空間は無いし、もろもろの情報は物でもない。物ではないから重なることが在り得る訳で、それが人間固有の発想ないしアイデアの源泉だろうし。
そういえば、過去問で30点越えてきたと店長と先輩女子との雑談で言ったらびっくりされた。「2カ月で仕上げて来たのか、天才か」って。これは別に僕が凄いということを語りたい訳ではなく、こうなっているのは物として蓄積してないからだとふと思ったという話。
母親も、僕がずっと某法律系の資格の勉強をしてきて何かを蓄積しているのだから、色んな資格を取れば、って言っていたのだが、これも僕が時間をすり減らして知識という物を蓄積してきていたのだから、資格という市場価値がある物に転化していけば良いという発想だと思う。
いや、僕も使える物は使うという知見を得たから、なんなら英語を習得しようかという感覚もあるのだが、これはともかく。
まぁ、母親は僕がずっとやってきたことから何も返って来ない「甲斐」を心配しているのだと思われる。心配していたらしれっとパートナーと同棲しているという情報が出てきて合理的に納得できないから説明求むとなっているのだろうな。
何かを費やしたら何かが返ってくるという感覚でずっと生きていなかったから、世界と微妙にズレていた模様。勉強時間をかければ資格が習得できるというのも、普通はそうかもしれないけども、個人的にはよく分からない。
時間をかければ知識というか市場価値がある物体が自分の中に所有されるという観念は何処由来なのかは知らない。あぁ、貨幣制度由来かも。少なくとも僕の頭の中には金銭に変換されるような物は何もないような気がする。この指標で価値を付けるのは自己ではなく市場だろうし。
「甲斐」の観念って若干契約と似ているし、経済とも似ている。何かをしたからその対価が返ってくるという感覚が対ヒトには適用されて良いって合理的な考えだけど、人の存在を完全にはカバーできないような。
母親に焦点を当てるのもなんだが、この人っておそらく姉と妹が自分と疎遠になったことを、自責ではなく他責で自分がこれだけ費やしたのに返してくれなかった親不孝者と認識している。ほんとうにそうであるのかというは家族である僕も定かではない。姉も妹も僕が母親と繋がっていると思っているだろうから、本質的なことは語らなかった。いや、大昔は色々語っていたような気もする。いまや生活圏が離れたから、特に連絡をすることもない。
いや、僕から働きかければなんとかなるような気もするけども。
家族の離島を繋げられるのは、ちゃらんぽらんの僕でしかできない。これを繋げたいという意志はないけれど、繋がったら楽しいし、母親の寂しさも軽減されるのではないかという楽しそうな感じはある。
ちゃらんぽらんな話で最後。
「道徳の系譜学」で、ルサンチマンの善悪と、優れた人の善悪の起こりが逆であるという記述が面白かった。優れた人というのは、貴族で生まれたけれども、自分の地位が高いのは運であるという感覚だから、良しが最初にあって、悪いはその後に構築されるから、世界に対して恨みが生まれない。運であるという感覚がないといけないというのがミソ。ノブレスオブリージュみたいなことなのだろうなと解釈している。
で、ルサンチマンの方は、悪しという世界を他責に捉えた後に、その反対語である善人が自分であるとするから、自己の置き所が他責になるという話。悪くないということが善人の定義だから、いつまで経っても世界を恨みながら生きるみたいなことなのだろうなと解釈する。
世界が悪くて自分が善みたいな感覚は僕はそんなに持ったことがなくてあんまり分からないところではあるのだが、そういう感覚の人と懇意になると、僕も惡になるになるんだよな。どれだけ近くても相手にとって僕は世界に含まれているのは当然だし。
まだいろいろ物足りないのだが、本日はここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。