イドの底

 

 

ここは井戸の底の方。そこで見つけた言葉は「枯渇しない」だった。

 

 

世界に対してもっとふてぶてしく在ろうと思ったら跳ね返されたのだが、これはこれで帰ってきたような感じがある。病みとかではなく、単なる底の方。色々交換価値的な思想がうごめいていて、なるほどなぁと想うところもある。もちろんそれを他責になぞすることはない。でも、一般的には他責にしても良いから、それぞれが自分を守るために自己の領分を確保するということになるのか。

 

このバランスの取り方だとどうも具合が悪い。世界のせいにはできないのにどんどんと流す。そろそろ底が尽きるのではないかという次第になったとき、お風呂読書で「こんなところで死ぬなら、そんな人生を生きる意味はない」というフレーズがあった。希死念慮は世界との関係にしか起こらなくて、無関係の領域では楽しんでいる。

 

この小説筋がよく読めてないのだが、なんだか文章が美しい。

井戸の底から見たような星空というフレーズも出てくる。

 

関係は継続する義務をやんわり強いるらしい。レヴィストロースとかモースがこの辺りを考察していたとか。贈与という儀礼と近親相姦の禁止には罪悪感という燃料があるのかもしれない。いや、関係自体が悪いとは思わないし、僕個人も姉と妹がいるが、そういう感覚になったことはない。生理的嫌悪があるというより近くで過ごすのが当たり前過ぎて何も感じないというくらいだが。もっとも近い他人が家族。

 

他人という単語って、劇場の外みたいなニュアンスがありそうだが、僕の中では他人と認識される時点で劇場内という色合い。世界には他人にすらならない認識できない人が溢れているし。

 

ただ、何かをし続けないと繋がりが継続しないという関係はなんだかなと想っている。存在の繋がりは肉体とは別離しうる。でなくては退場した人に思いを馳せる関係も起こらないし。僕にとっては父親で、満月さんにとっては親友さんか。退場した人だって個人の舞台では居ないことにはならない。

 

たぶんまだ退場していなくて、会おうと想えば会える人、会おうと思っても会えない人、たぶん逢わない人、色んな階層の他人が居るが、どれも関係の一部。あぁ、もう実際には会う気がない人も居るか。筆頭はもっとも長く過ごした恋人さん。向こうも実際にはもう会いたくないだろうし、万が一会おうと言われたとしても無いな。30年後くらいにたまたま逢うくらいなら面白い。

 

そういえば、僕の人生の舞台って、今のところ半分が地元の愛媛で、もう半分が大阪だ。次は愛知で同じ年数を過ごして3分割されたらなんかめっちゃ面白いなと含み笑いをしたのが昨日の昼休み。最終的には愛知が半分を越える可能性もある。そうだったら良いな。

 

 

 

人が手許(手が届く範囲)を大事にするのは、コントロールが任意であることではなく、所有権の概念が人類に導入されてからだと思った。所有権って個人の概念とセット。個人は自然だろうという反論もありそうだが、個体としては個別でも集団の全体の一部が人であるというのがもともとあった。今でもそういう気分で生きられる人は居るかもしれない。

 

この下りと無関係ではないような感じだが、そもそも動物の肉体って細胞が更新されて入れ替わるのに、経年劣化するって意味分からんよなというテーマの思索が起こった。植物は環境が整えば動物の時間帯を遥かに越えて固体を維持できる種類の大先輩も居るのに。

 

もちろん、DNAが体を維持できる時間帯を既定して種として変化することによって類を維持するという生物学も知った上での話。この進化の仕方では頭打ち感があるような。どれだけ年代が更新されても同じところで生きてないか。昔の人は今より遅れているみたいな認識がある人は自分が昔になった時にどう振る舞うのだろう。僕も最新の人からしたら昔の人だが、最新が良いとも限らないとは想う。昔が良かったとも思わない。いまの方が確かによろしい。個人の感覚に寛容。

 

 

ともあれ。

 

所有権の概念は、為政者とか地主とかか国家から個人を掬う概念であって悪いものではない。調整を個人の場に置き換えることによって国が楽になるという節もありそうだが。

 

アイデンティティが善悪の領分になるというのもセットなような。

後ろ盾があるから善とか無いからから悪とか。LGBTがまさに。僕の個人的体験はさておいておこう。

 

人に対しても所有権の概念が適用されるのがパートナーシップ。満月さんに関してはとんとないが、握持されているという感覚があった。だったら僕も所有しなければって。人は持ち物にはなり得ないのに、恋人とか付き合うとかの概念がそうなる。持ちつ持たれつという縛りで自己が承認されるのであれば、それはそれでいい関係。

 

でも、僕は人を持ちたくはない。

関係の自由さは所有から離別しているような。

 

だって、人の心は手には取れないし持つことができる物でもない。

 

最終的に結局日向なのだが、どう読まれるだろう。

勝手に読んで然るべし、というのが関係。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。