屈折

 

 

 

21:54から。

 

 

 

お勉強の1日。心理的なところなのか、知識が繋がって来たのか、解いたことない宅建の過去問を3年分ざっとやったら全て30点を越えてきた。知識と照らし合わせて考えて解いているよりは、なんとなくという勘というか感みたいなところも多いのだが、もともとそんな頭の使い方だったのだった。

 

細かく暗記しているというより、記述に違和感が読めるというか。記述とか穴埋めだったらこういうやり方は無理だが、あくまでマーク式だし。ただ、この試験、問題の作り方が若干つまらないところがある。日数が違うとかメートル数が違うとか、そこに焦点当てるのかって。

 

数値を覚えるのがとんと苦手。数は無個性だし、その数を決定する目的の合理性は理解できても、目的がその数に集約することは一義にはならない。

 

例えば民法上の成人年齢を決定する合理性は判断能力が育っていない(とされる)未成年を保護することにある。年齢で一律に区切って、線引きを越えない人は完全に自律的に法律行為ができない代わりに、一定の場合に法律行為を取り消してなかったことにできるという保護が与えられる。でも、その区切りである年齢としての数値は、時代によって20歳だったり、18歳だったりしても合理性は保たれるという意味でひと通りにはならない。

 

いや、もちろん実務的に考えれば正確な数値は何より大事なところ。そこを外してしまうと法令違反になる。道交法のスピード違反も然り。ただ、ここは実務をやっていけば勝手に身に付くところであって、大事なのは正確な数値ではなく、どういう場面で数値の制限があるかという大分類のところなような。覚えても変わりうる項目だし、なんでそういう風に数値を決めないといけないことになっているかを理解しておかないと、数値がパンクしてむしろ脳にとってノイズになるような。

 

とか文句めいたことを垂れたところで、試験の内容は変わらないから、数値に関しては直前で詰め込んでみよう。そういえば、世界史の年号を覚えるの滅茶苦茶苦手だったな。何年に何があったかではなく、これがあったのが何年だったという方向で採り入れた方がきっとよかった。年譜だと時系列で書かれているけども、その整理法は最終型であって、最初からそういう風に把握できない気がする。

 

だって、人の素朴な頭の中には矢印上の時間は無い。というか、刻んでいくような概念もないような。流れるようなものではなく、偏在している?

 

実際に刻んだり流れたりするようなものが人に内在しているのであれば、外に時間という概念を創って皆で分かるようなものさしにする必要はないという説。実はメートル表記とかグラムとかと同じような括りでは。

 

と、若干変な話になってきたが、試験日は今週日曜日。楽しみになってきた。受かった運で、受からなかったら実力とする。来年も受けるのは面白くないから、さらっと取っておきたいところではある。

 

 

 

さておき。

 

お勉強の他の話。髪を切りに行ってきた。

我が職場の力の入れ具合のおかしさで一頻り盛り上がる。別に会社批判にはならないのだが、なんとなく具体的な話を書くのはやめておく。

 

シェフワングランプリという料理人の番組を見ていて、2年連続2位の無冠の帝王の山下さんという方が居るのだが、髪を切り終わったあと鏡を眺めていると、僕ってこの人と顔の系統が似ているなと思った。満月さんに言ったら、満月さんもそう思っていたらしい。ここ2年くらいで何故かキリっとしてきた。あくまで系統が似ているだけであって、雰囲気は違うと思われる。

 

 

夕方辺り、母親から電話がかかってきて、何ぞやと折り返すと、新米が手に入ったから送るという話だった。ありがたや。やり取りを横で聞いていた満月さんが、僕の愛媛弁に萌えたらしい(惚気)。勝手に方言に戻るのではなく、あえて戻している感じ。素朴に話すと人物像がズレるかなという無意識がやっている。

 

大昔、文章を方言で書くというのをやってみたことがあったのだが、全然キャラが違うし読みにくいという評価をいただいたな。書かれている内容より方言が気になるみたいな。

 

 

ここからはちょっと我が母批判になりうる。満月さんとの経緯を話すのが筋だという話をやんわり繰り返されたことについて。たしかにこの筋は分かるのだが、これを「べき」論で語られると、若干反発の意識が芽生える。

 

親子の血族関係はあるけれど、そもそも僕がこういうことを話しても良い関係を構築していたのかという話になってくる。思春期時代、やむを得ないとはいえこの人はずっとイライラしているように見受けられて、何かを話して良いという雰囲気ではなかった。そこから僕が経年して行っても関係が和解されることはなく(僕がこの関係性を利用していたのも然りだが)、今更話せよと言われてもなかなか。

 

関係性の構築というのは、今の職場の店長が良く言っている言葉。変な話、この職場ってほとんどが通り過ぎていく有象無象だから、相手は誰であっても良い。そのピンポイントの時間で関係性を構築できると、情が芽生えて全然関係ないことも語ってくれるようになるという感じ。店長は発話量で無理やり情を持ってくる感じだが、計算ずくでこの人だったら良いかなするスキルがある。いや、厳密言えばスキルではなく人格由来なのかもしれないけども、まだそこまでは読めない。

 

ここを流用すると、血族関係であっても、色んなことを話しても良いという関係性の構築は別物なのかもなという仮説が浮かぶ。少なくとも僕は血族だから何でも話すべきみたいな価値観はないし、満月さんとのなれそめを母親に話したいとも思っていない。頻繁にやり取りしても精神エネルギー遣わない関係だったら勝手に出てきていたとは思う。プライベートな関係は仕事ではないのだから、報連相は任意であるべきであって、それが無いからって文句言うべき対象は、それを相手に言わせられなかった自分ではなかろうかって。

 

要は、言っても良いのだって思わせられるかどうかが問題。

私的領域は外から既定された関係があったところで開錠して良い鍵にはならない。どれだけ親しくても土足で踏み込んではいけない。

 

 

やれやれ。

 

イグアナの娘」を見ている。

どのタイミングで見たかは定かではないが、印象に残っているドラマ。今観ても面白い。寓話っぽい雰囲気が残ったのかな。母親は子供に対する愛はあるのに、生理的に受け付けらないというジレンマというテーマで読めば、なんとなく心理学っぽくなるし、深いから残ったのか。

 

もうちょっと書きたいところだがここまで。

 

はい。

 

明日も楽しもう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

皆さまも楽しめますように。