力と量と質

 

 

22;12から。

 

ばたばたしていて休まらないし集中もできない1日

注意するのは良いけれど、注意しないといけないこう項目が増えてくると強迫的な神経が張り巡らされていく。

 

 

ちなみに「勉強しよう」という意識も勉強を始めるまでは注意しないといけない空白・充足だし、人から言われるのもそう。しようと思えば思うほど、言われれば言われるほど、やる気が失せていくのは結構誰しもに適用できそうな観念だけど、それでも人はそういうことをする。これは動機と行動がワンセットだというルールによっているのかもしれない。

 

行動に必要なのは、動機ではなく認識だと思われる。

これは刑法で言うところの故意論の話なのだが、犯罪行動を起こす前に当人にその認識があることを故意という(ざっくり)。人のこの部分を刺せば、退場しうるだろうとか、この細い道をすぐ止まれない速度で走ると、誰かが飛び出したときに引いてしまうとか(若干過失の話臭い)。要は、認識できないと意識できなくて、行動に対する自覚がないから、やたらめったら結果だけで取り締まっても、将来の犯罪が抑止できないという話。

 

ここでいう認識は当人が意識を言語化できるかどうかではなく、諸々の内部(自白)・外部(状況証拠)から、それが推論可能かということ。例えば自分が相手のどこを刺したが具体的に言語化できなくても、胴の真ん中辺りに狙いを定めましたという発言と、実際の結果が一致していれば、人の退場をもたらしうる危険性を有する行為をする認識があったと推論できる。当人が主観で大丈夫だと思っていたとしても、客観的にそういう事実を認識していた以上、それを取り締まれば、未來の人が行動するときにその認識があれば自己の評価がどうあれ捕まるとして行動を控えるから犯罪が抑止される、という考え方。

 

 

まぁ、世界は世界として自分は自分とするべし。

 

 

過去問を解いていて調子が良いなぁと思っていたら、職場から電話がかかってきた。

状況が状況だから仕方ないけれど、ほんとうは休みの日に仕事はしたくない。別にオフの日だからと言って頭を休めている訳ではないが、注意が消費されるから。休みの日に山に行きたい人の気持ちが分かる。つながりは社会的な自己の存在の基盤だけども、ここから断絶された空間で孤立して自己を回復するというか。

 

母親は僕が本番に弱いという評価だが、個人的には何かステップアップしようとしている時に足を引っ張る外的要因が起こることが多いのかなという気分。別にそれで足踏みしたところでそっちルートも楽しめているから問題はない。

 

センター試験の一週間前くらいに父親が倒れてそのまま退場したとか、行政書士の試験を初めて受けた大学時代の時は当時付き合っていた人が前日辺りに妊娠したと言い出すとか。相手はお酒を呑みながらそれを言っていたし、実際にそんなことは無かった。この人にとって僕は浮気相手だったし。

 

ちなみに、足踏みした原因は全て僕に内在しているという解釈だから、これらが無ければステップアップルートに行けたとも思っていない。ただ単に、そういうことが起こりがちだったなというだけ。

 

今回はまぁ大丈夫ではないかと思っている。

 

ばたばたして電話しながら外を歩いていると、ふわっと金木犀の香りが撫でてくれた。これに反応できるということは、まだまだ余白がある。

 

頭の中に物がないのとすれば、ぎゅうぎゅうに項目が詰まっているかどうかどうか解釈問題でしかないということに気付く。世界が煩わしいと思ってしまうのも神経からくる刺激についての解釈。

 

もちろん、物的世界に呼応する領域もあって、ここが物理的な意味合いでの注意力なのだろうな。個人的には力というより量な気がする。注意量。運転しているとがつがつメーターが減っていくやつ。あと、怒られたりキャパオーバーだったり理不尽な指摘をされても減っていく。ここでは物がないとは言っていられないのはたしか。ここが鍛えることができるかどうかというと、きっと無理だという目途がある。メーターが減ったときは無理せずに回復を待って、許容量の中で何とかやりくるように調整するだけだと思う。なんでもかんでも物的注意量に含めようとすれば、現在の社会の情報量にパンクするだけ。

 

まぁ、意識に関して言えば、情報にしない分、割と無限大になるような。

 

 

どうでも良い話。「文章は短い方が良い」という記事があった。たしかに、どんな領域でも許容できるというか、覚悟がある文字数はあるのは分かる。某つぶやき場では課金すれば140文字を解除できるようになったとか。

 

で、noteではだいたい1000文字くらいだろうというのが筆者の目安。個人的には確かにそれくらいの熱量で書いている人が多いのだろうなという感じ。読まれる為に省略しているのか、ひねり出しでそれくらいなのかはともかく。

 

個人的は読まれたいというより読まれうるくらいの感じで、そもそも相場を気にして書いていないから、読まれたいという熱量についてはあんまり分からないところではある。というところを考えていくと、個人サイトだけで更新していけば良いのではという気分になってくる。ただ、具体的にきっと更新して読んでいる人が居るだろうという情の部分があって、なんだかついでに貼っているという感じ。

 

動機とか熱量の補充として読者を認識できないのは、書き手としての適性がないような。

 

 

なんだか、この場では許容オーバーな文章量になってきたからここまで。

noteへの貼り付けはしばらく辞めてみようかという気分。はてなは閉鎖的だけども読んでいる人の文字制限はなさげ。

 

では、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。