束の間

 

 

 

22:05から。

 

20時40分くらいに帰って来て、この机に座るまでに、洗濯、お風呂読書、キムチチゲを作ってステーキを焼き、ベビーリーフと鶏ハムでサラダを作り、お母様印のガリをよそった。

 

誰でもできるような時間を過ごさないというのは調子が良いということになるのだろうかという命題が思い浮かんだのでまた後で。

 

 

昨日書かなかったのは眠かったからというか、言葉を吐き出す気にならなかったから。

これが調子が悪いということになるかは不明だが、きっと調子の定義による。調子の悪さが退場に向かうならともかく、調子が悪くても別に最低限の物理的・社会的生命は維持できる訳で。

 

こういう時って注意が向いた時しか自分が存在しないみたいなまどろみ区間な感じなのだが、きっとあまり共感は得られない。まぁ共感を得たいという方向性の精神だったら文章書けてないのだが。

 

 

 

さておき。

 

お仕事。

 

せっかくの成果が、僕が感知できない所で駄目になってしまった。なかなかがっかりというか、お客様ちゃんと次が見つかるのかの方が心配。

 

あまり細かいことは書けないから抽象化するのだが、YouTubeの某岡田さんが言っているところの「評価経済」の世界だなぁと思った。実際にきちんと飲み込めているのか不明だが、僕の解釈だと、評価する側であった匿名的消費者が、ネットワーク世界の情報収集の発展によって、消費者として個別的に特定されてしまって、選ぶ側ではなく選ばれる側になっているというお話。

 

グーグル先生の星付けとかもアカウントにログインしてやっているのだから、ネットリテラシーなく実名でやっていることもあるし、匿名だとしても、評価が蓄積されていけばこのアカウントはどういう傾向(性格)なのかがAIとかネットワーク部門に収集されていく訳で。

 

これを怖い社会化と思うか、昔よくあった「近所の目」みたいなものが拡がっただけで、悪いことしない人が増えるじゃんと安心になるかは、当人の日頃の行いによるかもしれない。

 

個人的には、社会からまなざさられる、まなざすだけの一方通行から双方通行になることは結構気楽ではある。知能とか学歴とか客観的な条件だけで決まらないという意味より、この視点が無い人は別の世界線になるだろうなという意味。弱肉強食とか自由競争とかとは別の指標で勝手に選別されていく。

 

文学理論の本を読んでいて、僕って結構ポスト構造主義の考え方に近いところに居るのだろうなという読み味。ニーチェさんが僕の世界に今やってきているのはそういうことかと。神様は発明品だというのは同感だし。

 

ポスト構造主義は、「脱中心化」という概念が中核になっている模様。

読み物において、自明な事実なぞ存在せず、ただ解釈があるという説。たしかに、文字化した時点で事実とは別物というか、その地点からは離れてしまう。かといって文字化しないと伝達はできないのだが、これは別問題というか。

 

読み物はこういった「参照点」が無くても特に問題なく読める気がする。自分が体と脳を読んで居るのは確かだが、別に自分といちいち繋げなくも読めなくないかというのがポスト構造主義のまなざしのような気がするのだが、自分の感覚と連動させて読むのがまともな読者だというのも分かりみ。

 

 

やれやれ。

 

調子の良し悪しの話。僕は調子が悪いときに文章が読めないということはほとんど無い。まったくないとは言わないが、もともと自分を参照点として読むスタンスでないから、読む側の僕がどうかというお話は関係ない。

 

ただ、現実にポスト構造主義の観念を持ってくることはできない気がするというのが冒頭と繋がる。読み物には時間が流れていないというか読み物特有の時間が在るけれど、現実とされている世界は物理時間の指標があるし、自分の肉体の調子もあるし、参照点が自己という前提がある。これによって時間が相対的になるのが調子の良し悪しとしてみるのもアリかもしれないという解釈。

 

単位時間は物理的に決まっているけど、その時間の中で何ができたかを換算すると、できればできるほど相対的な時間がどんどん長くなって、時間が余るのでは。

 

ここで生きなくても人生恙なく過ごせるし、こういう時間の中で生きるのは意識高い系っぽいけど、意識高い系のまなざしは自らではなく社会に向いているから、どちらかというと絶対時間の話だと思われる。

 

あくまで当人の中の時間がどうかという話。

 

どんなに絶対時間がないと思われる時間内でも結構遊べるのではというところで過ごして行きたい所存。

 

でも、これって、、、

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。