めりーごーらんど

 

 

21:51から。

 

本日は給料日だったため、仕事終わりにお休みだった満月さんと外食に行ってきた。あっさりしたトマトだれがかかったトンカツ定食とカツカレー。美味かった。満腹なのでやや眠い。

 

昨日は早めに日記を書き終わってから、2人でSWITCHのリングフィットをやった。膝のバンドが見当たらなかったため、リングコンのみでできるやつ。筋肉痛にはならなかったが、微妙に腕がだるい気がする。さっき家電量販店に行ってバンドも買ってきたので、フルスケールでできる。というか、満月さんがさっきやっていた。なかなか運動量が多そうだが、身体の動きと連動するのは面白そう。

 

 

運動しているのを横目にビールを飲んでいるという。

僕も筋肉量を増やして貫禄を付けていくか。

 

さておき。

 

仕事でも、若干やろうやろう時間ができてしまった。事務作業的なものは全く問題ないのだが、話しかけていく方面にラグがある。もっと話慣れをしていかないといけないから、色んな方面の人に動いていくべき。知識は後からついてくるだろうから、とりあえずは岡田さん方式の言葉を気にして発話量が少ないタイプの人は素より10倍くらいの発話量を意識していくという手法を使って行こう。

 

素ではやらないようなことをするのが仕事だとすれば、どうあっても摩擦が生じる。とはいえ、この摩擦を不快だとか苦しいものとするか、寧ろ楽しむべきものとするかは解釈次第なのだろうな。仕事が楽しくないものだというのは、仕事の価値に重きを置く(高尚なものとする)ことと表裏だが、僕は高尚なものというよりは、楽しんでやるものとしておきたい感じ。楽はしない方が楽しいのが仕事。これはある程度拘束時間は免れないし、どうせ拘束時間はしてもしなくても過ぎ去っていくのだがら、動かないと時間が遅くなるし退屈になるということ。

 

仕事をしていようがしていなかろうが当人の尊厳は変動しない。

変動するのは当人の生活くらいでは。生活は今後どんどん楽になっていくだろうな。その分プライベートの活動範囲も広がってより楽しくなる。

 

なんだかこれを書いていて思ったのだが、なにか高尚なことを言っている感じのようで、単に精神がオトナになりきれていないだけなんだな。反復はできるけども、反復の中にも遊びを創りたいというだけ。まぁ、そんなんだから、こんな存在でいられるということか。

 

ニーチェの「超人」の概念ってこんな存在じゃなかったっけと少し調べたら、「絶望的なニヒリズムの状況の中で、なおも生きる意欲を失わず、生を積極的に肯定し、喜びさえ見出す強靭な存在である」とのこと。これって常識を習得した後もがきんちょの精神を置いてこないことと言えなくないか。超訳過ぎるか。

 

ニーチェさんの哲学書って読んだことがない。「善悪の彼岸」は持って来ている気がする。見つけたら読んでみるか。そういえば、最近お風呂読書に哲学書枠が無かったし。

 

真面目に考えると、常識って結構ニーチェさんの(Hitopedi参照の)ニヒリズム的かもしれない。宗教が教える生きる意味はあんまり知らないけど、救いがあるから信仰されているけれど、常識が教える生きる意味は絶望と向き合うというより、絶望はそのままにするしかなくて、そこを迂回したり遠ざけたりするところにあるような。迂回の極致が資本主義のような気もしないでもない。

 

相対化は合理的な常識だけども、相対化する限り、上と下は必然的に生まれるしヒエラルキーの下位が上位に行く方向もほとんど無いという絶望がある。常識人は常識人である故に絶対化する程に強靭になれない。

 

キルケゴールさんはこういうのを死に至る病と表現したのだっけ。ここでいう死とはなんぞやという話になってきてややこしい。変な話、生も死も現象だけではなくて言葉で規定される概念だから、使われる局面それぞれで意味が異なる。

 

漫画アプリでチェンソーマンの1部が無料だったため一気読みをした。満月さんは構造的に亜人とか東京グールみたいな彼岸の中間的な存在の話というのが似通っていて興味がないらしい。考察はひと通り読んだ上で。なるほどと思う。僕は亜人の佐藤(だっけ?)の、亜人のメカニズムを利用した復活ワープの下りは概念的に好きだし、東京グールも結構全体的に好きだったから、この構造がお好みなのかもしれない。

 

チェンソーマンは悪魔が概念で、その概念に対する人々の恐怖心がその強さに比例するみたいな設定が面白い。グロテスクな場面が結構あるのだが、作者がグロテスクなものとして表現したいという感じではないから、特に読みにくくない。「ノルウェイの森」の性描写がエロさを表現するためのものとして描かれていないのと同じ感じ。

 

あと面白いのが、チェンソーマンが食べた悪魔(概念)は人々の記憶というか認識から消失してしまうという話。エイズとか第二次世界大戦もこの世界では無いものとなっていて、さらにオリジナルで祖唖(感染症かな?)とか、人の心を狂わす星の光とか、人が亡くなった時にあった死の他の3つの選択肢とか、不可思議な概念が消失していることになっているのもなかなか。

 

もっと若い頃に読んでいたらもっと怖かったかもとか思ったが、僕は中学生くらいの頃にバスタードとか読んでいたから、グロさ的には特に影響を受けなかったと思われる。

 

 

さて、そろそろ寝ようかな。

 

僕は超人ではない単なる変人だけれども、変人っぷりをもっと発揮して良いのかもと思って来た。発揮することでどうなるかは不明だが、常識人っぽく大人しく振る舞っているよりは楽しいに違いない。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。