尺度

 

 

21:20から。

 

 

かなりまったりゲームをしていた。ライネルはおろか、ヒノックスも倒せなかった。操作の練度が拙すぎる。コントローラーを傾けるのと、右側のスティックで位置調整していくのが難しい。バイオハザードのリメイクもしたいな。

 

と、まったりしていてご飯を作っていなかったため、空腹の満月さんに怒られる。ネギトロ丼が所望で、買い物はしていたのだが時間を気にしていなかった。とはいえ、ネギトロはなくて、仕方なく刺身を買っただけ。そこから30分くらいで作った。

 

お米を吸水させながら刺身を細かく切って叩いてマヨネーズと顆粒出汁を混ぜて冷蔵庫で休ませている間に、みりんをレンチンでアルコールを飛ばし、吸水させたお米を炊きつつ長ネギの青い部分を細かく切ってマルチタスク。炊き終わった蒸らしタイムで一服。

 

人間の脳はマルチタスクできるようにはできていなくて、2つが限界という研究結果があるらしい。切り替えをパンパンし過ぎると機能低下するとか。あくまで暫定だと思うが、たしかに、いったんクールダウンしちゃうとスイッチを切り替えるのが大変なのは実感がある。

 

仕事の電話をしていると若干テンション上がって来るのはアドレナリン的なものが出ているだけだろうから、仕事をしていると調子が良くなっている訳でもなさそう。まぁ、エキサイトする波があったほうが健全ではあるのか。

 

 

 

さておき。

 

昨日の日記に2つスキが付いていて、あまりにも読んでいないのだろうなというのが分かって面白かった。たぶん自分が書いている記事を読んで欲しいがために、付けている類。

 

1つはニュース記事を書いているっぽい。僕はニュースを見ないと書いているのに、ニュースという語句検索でやって来たのだろうなって。2つ目は家計簿から探ってきたのだろう。食費の細々した計算アプリを提供しているとかなんとか。大まかで良いって書いてなかったっけって。

 

別に好きにスキして問題無いのだが、なんとなく名詞の力を感じた。たしかに形容詞で検索することはほとんど無い。例えば本日の検索は「ネギトロ 切り落とし 簡単」とか、「マヨネーズ ドレッシング」だったし。

 

でも検索の為に他人の記事を読んでいる訳でもない。そういう意味の情報源だったら、文章を読む必要がないというか、必要な情報はSNS外のネットに溢れている。漫画アプリのポイント欲しさに一瞬某動画アプリをインストールしたら、通知が面倒過ぎてポイントを得るまでノルマをこなせなかった。

 

受動的に情報を得ると実に成らないからもうやっていない。

読んだり見たりする表現物は自分で決めるから、無駄な広告は要らないというスタンス。

 

自分で探そうとした情報の方に価値があるというか、流れていく情報に流されたところで、目的無く全部留めることができるのはよほど脳内容量に余裕がある人しかいない。こういう意味の目的論は、大上段の理念みたいなものより現実的だから、ありかもしれない。

 

 

いや、別に人の文章を読まない(読めない)人のことをディスっている訳でもないですよ。念の為。読みつ、読まれつなだけって現実的効用はほとんどないだろうし、実入りがあるように動いた方がたしかに効率的。

 

 

ここで言う「実入り」とは。

 

 

やれやれ。

 

そういえば、4年越しの友人とのLINEを復活させた。

なんで4年も音信不通にしていたのかというのは、僕なりには理由があるのだが、社会的にはそんなこと理由にならないと言われそうだから、単に僕が薄情だったで良い。

 

それはともかく、4年も経てば色々変わるよなと言われたことに対して、なんとなくピンと来ないところがある。

 

たしかに、経年というか時間の流れって人の外的状況を変える要因にはなるけども、この変化って当たり前過ぎるというか、だから当人個人が変ったとは言えない気がする。住んでいる場所が変わるとか職場が変わることが、人が変ったと言えるのかどうか。

 

個人的な人生観として、どれだけ外的状況が変ったところで、人は変わらないというか、もとに戻るというか、時間が屈折している感じがある。僕は結構、やっともとに戻れてきているなという実感があって、世界に対して頑なさが薄れているし、表情やら動きも年相応ではないような。

 

なんなら考え方も。認識しないと世界は形を成さないというのは哲学寄りだが、哲学の根底にある懐疑主義とも違うし、実存主義とも違うような。

 

満月さんと婚姻しても良いかなというのも、婚姻によって社会的にパートナーとして認証される方が今後気楽かもなという感じ。好きな人は1人が上限だから、パートナーが居る時に色目は使わない。(居ない時は拡散する)

 

なんかずれた。

 

経年するほど身動き取れなくなって世界に対して頑なに捉えてしまうという世界観が、幼少期に周りの大人を見ていてあったのだが、別にそんなことはなく、世界への認識を拡張することは、より柔軟に世界を捉えて良いのだろうなということになっている。

 

こういう次第だから、僕に自己のものさしがあるかということが気になりがち。

考えていることは尺度がいっぱいあるが、現実化しているのが固有のものさしだとすると、僕はきちんと自分の尺度で生きているに違いない。

 

尺度自体を言語化するのは難しい。

 

はい、ここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。