時機

 

 

22:17から。

 

なんだか微妙に荒れている。

少し、5年ほど前に試験勉強をしていた感覚と近い。

 

僕は僕で居ない方が良いというか、何かをしていないと居たたまれない感じ。

仕事をしていれば仕事をしているという椅子は取れるし、勉強をしていれば勉強をしているという風に周りが見てくれる。あとは誰かと関係していればとか。

 

それ以外はもう何者でもなく、椅子を取らないのであれば退場して然るべく、みたいなことがずっと頭から離れなかったのが10年くらい続く。外から見ればちょっと変なまともな人のように見えるだけ。

 

 

まぁ、ここで生きなくて良いとなったのが去年くらいで、恒常性の領分ではなくなったから、本日寝て明日起きれば、もっとちゃらんぽらんで穏やかになる。

 

今、当時の感覚めいたものに浸るとがんじがらめ過ぎて泣きそうになるくらい。

世界の他責にしないのなら、全て自責にするしかなかった。ここに居る僕とは関係できないなと離れていった人達の気持ちはよく分かる。怒ってくれる人の方が想っているという価値観はありがち。仕事ならともかく、日常では怒らない方が良いに違いない。

 

イチケイのカラス」のヒロインはストレスを軽減するホルモンが含有されている肉を食べて対処するようだが、僕にとっては食でストレスが解消されるということは無く、本の方かも。読書もストレス軽減効果があったはず。

 

もちろん、ストレスがあって、現実逃避してストレスを回避する為に読んでいる訳でもないから、負荷があるから読みたくなるという方向性ではなく、負荷が無い状態の方が読むモチベーションが高まるというくらい。

 

本日の荒れ具合はストレスが原因ではない。実際本は問題なく読めたし。本が読めない状態は、文字が滑って頭で再構築できなくなる感じ。

 

別に原因はどうでも良い話。当たりは付いている。

 

さておき。

 

本が読めない話。

 

先輩女子と店長が宅建のテキストを読んでいると眠くなってくるという発言が頭の片隅に残りつつ、本日、徒歩1分のゴミ捨て場に雨の中行ったとき、なんとく両者が繋がった。

 

ゴミ捨てって、その場所に行かないとできないけど、勉強は現実的にどこでも可能。ただ、例えばカフェに行かないと頭が働かない人が一定数居るみたいだけど、それって結構不便だよなって。

 

たしかに、お仕事時間には実際働いている拘束時間の外に準備やら出勤の時間がふくまれていて時間外の準備があるのと同じように、本を読んだり頭を使ったりするための準備の時間が含まれているのは分かる。

 

もっとおおまかにすれば、1日の頭を活動させる為には睡眠という準備時間が必要とか。

 

頭を切り替える時間が無いと活発にならないというのは人間の摂理だろうから、別にそこに至る準備が遅いかどうかはどうでも良い。

 

ただ、人(自分も含む)に対して自分の感覚とか一般的感覚で、その時間だけを問題にするのは違うよなぁって。例えば宅建って300時間かけると受かると言われているけども、その時間の中身って実際はなかなか個別的だと思われる。300時間ぶっ続けてひたすら問題を解くこともテキストを読むことも不可能だし、知識の吸収率も人それぞれだし。

 

僕はこういう時間単位で換算することが苦手というか相性悪いから、もっと遠回りしないといけない。遠回りしているからこその発想。眠くなるのは時間を費やすのが先に来ていて、時間消費で物事を捉えているから。

 

もちろん時間で区切らないと他の日常がこなせないのは確かだが、現実の人生劇場って物事が先で、時間の区切りが外からやってくるのが普通なはず。これを昔やってきた義務教育の時間割感覚が勉強だと無理やりやろうとするとそりゃあ眠くなる。そういう時間間隔に合わせられる人も一定数居て、時間が先で動けるのだろうが、できない人がそれをやったところで、無為になるだけだと思われる。

 

僕も昔、院の入試で1日12時間ひたすら法律書を回した時期がある。どれくらいの期間だったかは忘れたが、2カ月くらいはやったのかな。1冊2時間で6教科分。学校の授業と同じように、特に何も残っていない。やった分だけ残ったとできるのは結果ありきの話。

 

過去語りもどうでも良い。

 

本日は宅建六法という法令集を買ったもんだから活用した。

やはり、紙媒体は馴染む。なんで紙の方が読めるのかって、おそらく電子媒体より情報量が多いから。五感の複数が一致しないと脳は現実とみなさないというのを脳科学の茂木さんが言っていたような。

 

Excelに記録するレイアウトを試行錯誤した15分くらいは準備時間。

並び替えができたり、検索できるように書いとかないと、あとが大変。

 

その問題が解ける答えを導くというより、法令って抽象的だから、具体化する間の解釈を把握できるのは、テキストではないんだよな。いや、重厚な法律本だと解釈の学説が複数書かれていたりして、迷子になれるのだが。

 

細かい宅建業法の解釈の面白さもある。

書いても面白く読まれない気もする。

 

宅建業者が死亡した時、相続人は30日以内に都道府県知事に届出をしないといけないという条文がある。で、届出した「とき」に宅建免許が失効する。この失効するタイミングって実際にいつなのか。

 

答えとしては、死亡した時に遡るらしい。ただ、これって別に届出が届いたタイミングで失効させても差し支えない気がする。だって、本人はとっくに死亡して宅建業をしている訳でもないし。ただ、他の条文で死亡前に契約を締結した後処理は相続人が宅建業者として行うという条文もあるから、そことの整合性も付けないと、となると、体系的に解釈が決まってくるのだろうなって。

 

いや、法律の条文ほど悪文の文章は無いと思う。

厳密だから読みにくいというのもあるけれど、そもそも読み易いという目的で書かれていないから。どんな個人の文章も、法律より読みにくいということはきっとない。

 

 

あと、都市計画法とか建築基準法を前提としたデザイン論みたいな本があって買って読みたかったのだが、買わなかった。これも調子が悪い所作なのかも。読みたい本が買えない状態は、何かおかしい。1人であればこんなことは無かった。

 

だからと言って、1人に戻るのかというとそこは全然違う。

本が買えなくても、別に新しい本を欲望している訳でもない。

 

欲望が継続するという感覚が後悔に直結するという解釈なのだが、個人的には欲望自体は刹那で、そのタイミングで満たされなくても、それが残って居ればそのうち一致することはあるだろうなという感じ。

 

本は結構待ってくれるから大丈夫。

 

はい、そろそろ寝ないと明日の準備が。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。