わび

 

 

22:31から。

 

明日はお休みなので、遅いスタート。

寒くなってきて、鍋が美味しい。

 

 

夢。二度寝ができなくてまどろんでいる時に見た。寝ている最中に音で起きることはないのだが、寝る瞬間に音が鳴っているとはっとなって起きてしまう。世界線の移動のお話だった。

 

どこまで遡ってずらそうかとなると、高3の受験期かなぁと。別にお勉強はこれからもできるし、無軌道な分ここからの方が拡がっているから問題無いのだが、現実的な可能性の意味合いが全然変わって来る。四国から外に出るのであれば、関東圏は遠いから関西圏か九州圏みたいな常識観があったもんで、視野に入れなかったのだが、今住んでいる中部も視野に入れたら良かった。

 

ついでに、学部も文学の方がきっと合っていた。文学部は食い扶持が無いから法学部とかに行っておけばというアドバイスも現実的であって、特に恨みつらみも無いのだが、なにせ僕が現実的な重心をあまり持っていないということに自身で気付いていなかったものだから、なかなかこじれて迷子して遠回りすることになった。合わせないとという強迫観念によって、あまり自由では居られなかった模様。

 

受験期よりも遥かに本が読める日常になっているという世界観を過去に遡らせれば、親に負担をかけない国公立も行けたのかもしれないなと。知識は読んでいたら後から付いてくるだろうというてきとーな感じで、教科書10周くらい読んで。

 

あと、人間関係にもあまり固執しない世界観でこの時点に戻ったらもっと違っただろうなとか。外からのまなざしに強迫され過ぎていた感じ。もちろん今でもそういう感じはあるのだが、これはあくまでセンサーであって、主軸に置くところではない。

 

高校時代にお付き合いする人とか、その後の進展もズレそうな。

あんまり細かく書くとアレだが、告白されて付き合うとあんまり碌なことがないから、自分が興味を持った人にアプロ―チした方が良かっただろうなとか。例えば、「人間失格」の読書感想文で賞を取った人とか。

 

ついでに、今だったら父親の自己退場めいた自傷行為みたいなものも防げるような気がしないでもない。子供の立場だとしても、父親に対してできたことはいっぱいある。母親に対してできたこは無いという感じ。母親という支配者のような存在に対して、一緒に密かな共犯者になるようなことはできそうだという。

 

そうなってくると、零れ落ちる今の僕を通り過ぎた人達が出てきて、今の僕を作ってくれたのはこういう人達だから、時間のパラドックスが生じる。どんな人だって、縁があって関わった以上、当人の人格に影響している。程度はあれ。

 

ちなみに、この夢の解釈は、今の仕事とか環境が嫌だからこういう遡りが起きているとはならない。戻ったら面白いなという感じがあるということは、これからもっと楽しめるということ。

 

時間が不可逆的なことは当然理解しているし、実感もしている。

もちろん、景色も環境も移り変わっていくし、これを時間として捉えると他の人にも共有できるから分かり易い。

 

ただ、個人的には時間という物理現象はないという科学の定説の方が信じやすい。

人間が想像した物事ってだいたいは物理的に現実化すると思っている。自動車とかAIとか、宇宙にだって設備がある。

 

これで言うと、延長線上にタイムマシンが在り得るということになるのだが、タイムマシンが現れていれば、未来人がとっくにやってきているというパラドックス。UFOがワンチャンと勝手に思っているのだが、たぶんどれだけ科学が発達してもそこを物理的になんとかできるような技術はきっと出てこない。

 

なんで出てこないかというのは、時間が物理現象ではなく、観念的な想像物だからという説。

法律の概念でいう所有権とか過失と同じように人間の頭の中では現実ぽい存在でありつつ、物理的な現象ではないものだから。

 

お金だってそうで、物々交換の時代はとうに過ぎているのに、未だに現物でしか払えない決済が残っている。額面が高すぎて分からないというよりは、個人的に何で支払っているのかがよく分からなくなってきている。

 

だからと言って、現実ではないからどうでも良いじゃんみたいな話でもない。

そもそも現実と捉えている物事は、それほど物理的に観測できるものではないなという解釈なだけ。

 

現実認識とは五感の中で複数が一致することだと脳科学者さんが書いていたのだが、だとすれば、認識が他の人と一致することも現実感を強めることになるのだろうなと。

 

なんだか、上に向かい過ぎているからちょっと落として。

 

お仕事。外から店長より上役の人が、硯さんの研修項目を終わらせるように面倒を見てねって外堀が埋めたもんで、なんとなく気楽。成果はこつこつ上げているし、実践の項目は結構やっているのに、見習いという理由だけで歩合が個人に付かないのは個人的ではなく、仕事場として理不尽だよなとは想っていた。

 

店長の感覚としては、自分が必要だと思っているのであれば勝手にやるべきだというか、教える人ではなく自分でやる人だから、前もって教えて帯同させるみたいなことができない。

 

教育者ではなく実践派であることは尊敬すべきだけど、その実践の中に僕の成果も含めるしたたかさは「まったくもってからに」案件かもしれない。独り立ちできる段階でもないけれど、1から10まで聞きながらやっている段階でもないし。

 

人を成長させられる人材ではない感じだが、僕はこの人が店長だからこそ伸びているから、単なる相性問題だと思われる。

 

当たり前過ぎることって書かれなのは法律の条文と同じだが、当たり前を聞いたらきちんと言語化してくれるのがこの人。理屈がきちんとしている。

 

理屈って真実ではなくて、辻褄が共有できるかどうかの話。

 

もうそろそろ電池切れなので寝ます。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。