使い処
21:48から。
昨日食べきれなかったサラダの大根が浅漬けのようになっている。お漬物好きだから問題ない。遅めの出勤だった満月さんが2品作ってくれて、早めにお風呂に入れた。ありがたい。マグロと大葉の漬けと、アスパラとトマトの冷製お浸し。どちらも美味しい。毎度ながらアスパラの扱いがプロフェッショナル。マグロの方は、ご飯にかけたら絶品になるだろうな。
さておき。
寒いという言葉が実体化したような日。寒さが当たり前になれば単なる日常の形容詞なのだが、ちょうど良い気温から寒さに切り替わるタイミングには、言葉は固有名詞を越えて物質になるような気がする。物質としての体感はあまり共有できない。痛さとかも、痛い渦中の体感と、通り過ぎた後の痛かったという言葉は後者の方が圧倒的に共有されやすい。
気温が下がること自体に罪はないから、いらいらしてもしょうがない。
自転車出勤の熱が内部に溜まらないのはある意味良いこと。汗臭さという罪が生じない。
罪の概念は対人に対してしか起こらない。集合的理性がこれを発明した方が全体の秩序を維持できるということになったのか分からないけども、空気を読めるって、ちょっと罪悪感を抱けるのかという感覚と近そう。
僕の暫定だと罪悪感は国家という1つの宗教観の区切りの世界において国民足る資格として機能していたのではと想像する。懺悔とか、祈りとか罪を贖う為に善行があるみたいな。
個人的には無神論者なのだが、罪悪感はどうしようもない。
その分、贖う為の善行のブーメランみたいな感覚も無く、勝手にやれる訳だが。
お仕事で、僕ってかなり世間知らずのぽんこつで失敗製造機みたいなことをしている。
他の誰かが同じ失敗をしたのを見たとしても、いや、それは知らなかっただけであって出がらしになる事情を加味すれば、仕方ないしその場に居続けることに全く問題を感じないのだが、この自分がその失敗をしたとなると、なかなか罪悪感が半端ない。
過剰な罪悪感を抱くような人格は社会不適合者ではあるのだろうが、調整が取れていると何か病名が付くような事態にはならない。
これって、おそらく僕が社会の王道的な所で失敗する経験が不足しているだけだろうなとも想像する。社会の王道では他人に迷惑をかけるように世界が設計されているもんで、ある程度の迷惑は場代みたいなもの。その中で社会的な自分を保って場所を取って行かないといけない。
罪悪感を全く抱かないような人物でも、社会の王道に適合していればあんまり関係ないのだろうな。社会において悪がどれだけ痛い目をみてざまーみろとなったところで、サイコパスには認定されない。
この世界観が疲れるということはなくて、なるほどーと思いながら毎日お勉強しながら過ごしている。習得したとしても、きっとナカの自分は変わらない。愛媛から大阪に出てきて15年くらい過ごしたのに関西弁が浸透しなかったし。
失敗製造機なのも、そんなことが大事なのかというのがあまりまだ習得されて居ないからだと解釈する。形式は大事だが、形式は合理の為であって、形式の為の形式に意味を感じないのがナカ。死角になっているから見落としているのであって、視界がそこまで拡がればきっとここはなんとかなる。
どうでも良い話を差しはさみたい。
某放送局の契約って、契約とは名ばかりの強制になっている。
法的に考えれば、だいぶやばい。最高裁判所が認めたと言ったところで、国民が従わなければならないとならないと思う。だって、理由が無いのだもの。
ライフライン(電気・ガス・水道)の料金は生活の為に必要だから、どの会社を選ぶかといいう選択肢はあっても、いずれかは選ばないといけないし、料金を支払うことになるのは当たり前として納得できると思う。
テレビが生活上必要だったのは、情報源がテレビしかない時代のことであって、もはや番組で何を見るのかは自由の時代なのに、テレビが設置されているからという理由で、見もしない番組の受信料を払うのが強制であるという理由は、意味が分からないのは当たり前。
強制ならいっそ税金の項目に入れれば良いのではということになるが、税金って、用途が決まってない国庫に収納されるという建前だから、それもできない事情があるのだろうな。
あくまで個人的な見解だが、なかなか迷走していると思う。
民間であるならば、きちんと個別的な同意を取るべきでは。空気読めよという道徳観を出してくるのは良くない。
満月さん帰ってきて歓談するので、どうでも良い話でおしまい。
おやすみなさい。
良い夢を。