非左右

 

 

22:16から。

 

だいぶ遅くなっているけども、相変わらず元気です。

 

そう、元気なんだよな。

これを自覚症状と捉えてしまうと、疲れているという実感は思い込みに過ぎない。

 

自覚症状その1というか、当たり前過ぎて自覚されていない元気さ。

日常の所作についてしんどいからやらないという選択肢がない。

 

朝活はまだ日常になっていないから睡眠時間を増やした方が良いのではないかという節がありそう。睡眠時間って、トータルの時間というより、寝入って起きるまでの深度の話だから、二度寝したところで元気になる訳ではないのではないという説が提唱されてきている。二度寝しない生活をやってみたら検証できるのだが、なかなかの冒険ではある。

 

 

例えば料理。

 

本日は僕主導で、満月さんにも報告しつつ、鍋にした。

豚しゃぶ鍋が良いとのことでそれっぽいおつゆを買った。調味料があれば自分で調整する感じなのだが、ちょっと手抜き。

 

で、なんとなく、帰り際、仕事場でこれを開示した。

「今日は寒いので鍋にします、これから帰って作ります」と。

 

そうすると、主夫か、凄いなと言われる。

店長は、「俺、何時に行けばイイ?」とボケてくる。このボケ方、大学時代の友人と同じ。次の休みはいつかと聞かれて、次の休みは満月さんの実家で桃鉄パーティの予定と送ったら、「俺も行ったらイイ?」と聞いてきた。

 

ともあれ、要は、仕事だけの世界で生きることが当たり前ではない元気さがあるよなというだけ。これが相対的に凄いのかという意味では全くないというニュアンスなのだが、語るだけで余力が無い人にはマウントになってしまうことも自覚はしている。疲れたから本日は料理作れないみたいなことがあっても良い世界。

 

先輩女子も店長も家に帰ればきっとご飯が用意されていて、仕事に傾注できる環境であるということなのだろうが、僕は仕事の日を仕事だけで終えるのはもったいないと思っている質だから、他のこともできる余力を残しておきたい。

 

料理が仕事と類似している階層にあるというのは分かる。仕事は金銭と交換されるし、料理も金銭を支払えば対価として手に入る。料理だと金銭ではない厚意とか情で得られることがあるというところがちょっと違うけども、おそらく自分で作るかどうかとなると労力と金銭が天秤にかけられていると思われる。

 

僕はここを労力として換算するのは違うと思っているから、ご飯を作ること自体に金銭評価をするのは違うと思っている。だって、自分が作ったご飯って、市場に出回るものではないし、金銭価値が交換されない世界で他の何かに流れていくモノ。

 

大昔の職場でお弁当を多めに作って他人に食べさせたり、なんならスイートポテトなんかも配ったりしたが、これは僕がやたらと配るおじさん(当時は青年だったか)だった訳でもなく、食べたいと言って来られたから。少なくとも、僕は料理に関して、他人が美味しいこと言ってくれることが喜びにできないから、料理人にはなれない。

 

なんにせよ、対価性の中で生きていないから元気なのだよなという自覚症状の話。

目的とか理由が自家発電されているのかというのは微妙な感じだが。

 

ちょっとお仕事の話。

 

お仕事って対価性の権化というか、対価性がすなわち現実になっている。

僕はもっとお仕事上では対価性で生きないといけない。金銭に換算されるかどうかというお話ではなく、甲斐が回るような次元で生きるということ。

 

店長が、僕が社会的にイレギュラーな人ばかりに当たるのを見て、「昔の自分を見ているようだ」と評した。成果にならなくても経験として積まれるから意味が無いことは無いと慰めてくれたが、たしかにそうよなと思う。

 

思想的なイレギュラーな人は素朴に許容できる。これは自分がそうだからだが、自己がそうあるからこそ、社会的な領域ではきちんとしないと社会的に存在できないという意識があるから、それをしない人に対しては若干の嫌悪というか心配というか、大丈夫かというのが顔に出てしまう傾向があるみたい。

 

社会ではない私信みたいな部分では特に何もないけれど、社会的にはホウレンソウが大事だし、他の社会ではできているのに、僕に対してはできないということは、僕が社会的に甘えても良い存在なのだろうなと軽んじられているということに気付く。

 

話は聞きつつ、締めるとこは締めないといけないという自戒。

アウトローな人ほど社会的な他人との関係は気にしておかないという意識は、アウトロー界隈での共通項ではないらしい。

 

別に怒っている訳でもないのだが、僕が締められなかったことによって会社の人達も一緒に振り回されることになっているのが申し訳ない。どちら大事かといえば、自己保全とは関係なく、当たり前。

 

車の運転ができて、社会的な自分の振る舞いの善悪が理解できないって理解ができない。

いや、自己の世界だけしかなく、自己を保全する為には意識がちゃんとできるという意味では分かるのだが、その意識って社会に流用できるよねって。

 

 

やれやれ。

 

元気さの最上級は、日常に読書があること。

無目的に本を読める時間があるって、ほんとにぜいたく。

 

村上春樹さん枠が終わった。

「女のいない男たち」の男の1人であることは自覚症状があるのはともかく、なかなか芯に響く作家さん。

 

そうして、今日から堀江敏幸さんの「雪沼とその周辺」。

この人の文章も凄い。紹介された当時は特に何も無かったのだが、今読むと余白が半端ない。

お風呂でぬくぬくしているのにゾクゾクと鳥肌が立ってしまう。

 

特に何事も起こらないのに、描写だけで読ませるって凄すぎ。

 

 

はい、ここまで。

 

本日は、僕が単に元気であるというのが結論です。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。