あのさ

 

 

新年2日目。相変わらず世界からお年玉をいただき他へ回していく。

貨幣は仮想的な天下のまわりものなのだが、回すために入って来る。

 

近所のコインランドリーに洗濯物を突っ込み近所の探索。満月さんがswitchを所望しているから、ハードオフブックオフに行ってみたがなかった。本屋さんもあるし、生活圏としてこの上ない。

 

山が近い(たぶん歩いたら遠い)。鶏卵の直売所と精米所を見つける。うどんが食べたかったが、うどん屋さんは開いていなかった。

 

建設中のイオンモールを通り過ぎる。莫大な資金が動いているのだろうなと思いつつ、小さなあぶく銭をせびりにいく。読書も捗る。昨日の「小説のストラテジー」は置き忘れていたが、聞きに行ったら店員さんに「預かっております」って言われた。珍しい忘れ物であることには違いない。

 

世界が上手く回るのは、元気であること、馬鹿にしないこと、求めないこと、だと思っている。別に陽キャである必要はなくて、余白とか余地は元気が余っている人にしかなかろうなというだけ。

 

都合が良いタイミングで終わったから、スーパーに寄る。長引いたら新年シフトで閉っていた。満月さんご所望の豆乳もつ鍋ピリ辛仕立ての食材を集める。冷蔵庫があれば椎茸を買えたのだが、量が多すぎて断念。外気が冷蔵庫みたいな季節だから問題ないといえば問題ないが、椎茸が無くても問題なくもある。

 

そうして帰ってきて、先にお風呂読書をさせてもらう。体を綺麗にして髭も剃ったあと、用命があったお風呂も洗う。お風呂を洗っているとき思い出したのが実家のお風呂洗い。嫌だった訳でもないが、命令されるのは嫌だった。さらに分析してみると、ここの本質はお風呂洗いという家事が「しんどいこと」とされている価値観が嫌だったのだろうなって。今日洗ったら何もしんどくない。1回だからみたいな話でもなく、これが日常に組み込まれてもどうとでもなりそう。

 

もはや日々はこなすものという人生劇場で生きていない。

結局は全て主観的な見え方が問題なのだろうな。お風呂洗いが嫌だった原初って、母親が自分の「しんどさ」を分散しようとしていたことだった。いや、普通な気もするが、なんでこれがしんどいのかということはちょっと考えてみても良い。

 

 

おそらく、対価がないという思い込み。

掃除が必要、ではなく気持ち良く過ごせるということはきちんとした対価だと思うというか、対価ですらない当たり前。ちなみに僕はあんまり環境に左右されないから1人だと劣悪でも大丈夫。2人だったら綺麗にしておこうかという感じにはなる。でも、別に義務ではない。

 

ダシに使われて怒られそうだが、林業の女の子が仙人風呂(混浴)に行ってきた話を書いていた。あんまり解放されている感じがないのは、他者の視覚から自由になっていないからなのだろうなって。

 

僕は別になんとかニストではないし、なんとかニストがなんだか変だなと感じていたのだが、読んでいてなんとなく自分を読み取れてきた。

 

「消費」という概念。覗き見でもなく単に公的な場で眼差しを向けられることに対して「性的消費」という名付けは良くできている。名前とか定義って決められることではなく決めること。

 

「消費」って、変な話、使い捨てみたいなニュアンスがある。

消して費やすだから何も残らない。要は、性的存在であることが何も残らないと自己解明している言葉。たしかに価値はあるのかもしれないが、その価値は属性の中にあるだけであって、全然当人の話ではない。

 

個人的な世界観として、そもそも人は消費されない無尽蔵な存在だとなっている。もっと皆凄いし、コンテンツとなっている世界観から自由になって良い。

 

いや、だって、自分の人生劇場において消えて無くなった人なんて居ない。

 

林業女子の変なところは、見られたりセクハラされたりしたら目減りする自己があるところ。そんなところから離れた世界の為かどうか知らないけど林業に行ったのに、自己に金銭的対価があるとしたいみたい。

 

価値の指標は貨幣だという価値観は分かる。

女性は相対的に若さという価値があるし、なんなら男性でもそう。男性は権力を得ていることに価値がある。

 

この天秤だと、人は人をコンテンツにするという意味で同列になる。

これ、あんまり楽しくない。目減りする対象として接されることに甘んじられるのは、相手を目減りさせているという対価。知ったこっちゃない。

 

世界は他責ではないという高次元の世界観が好き。

他責にする世界だと自分は何も決めていなくて、世界がこうだから仕方ないということになる。僕もこれに倣ってきたが、しょうがないなんてことは無い。ただ、自分がそこの世界を選んでいるだけ。

 

大人になっても自分が生きてきた素朴な不自由な世界で生きるっておかしい。

 

 

もちろん、おかしく生きている人を否定しない。

否定って客観的なように見えて、結局自己否定だし。世界は客観ではなく、自己の主観の鏡で在るとしたら、軽々に他人を否定できなくなる。

 

否定で閉じるのは辞めた方が良い。

まずは感謝とか肯定から。

 

これが別にスピリチュアル系でもないのは「小説のストラテジー」にも書かれている。

 

物語を読むときには、主観的な国語辞典が働くから厳密に読むことができない。

この語彙はずっと想ってきていたところだから、専門家ですらこうなのかというところで元気になった。

 

読むという動きは、受動ではない。

 

書き直しだという表現、なるほど。

人の文章を読むときには、自分の語彙に直している。

 

僕の文章が読んでいる人にとってどういう風に書き換えられているのは気になるところ。

好きに読んだらよろしいだから、スキが付かないのだろうな。

 

固定して物体的に感得できるような人格が無いから、同情も共感できない。

すんません。人生劇場なんも辛くないです。

何かを得なくても円満。

 

 

この、何か苦労をしたという条件があってこそ、人生劇場が成り立つという世界観って常識になっている。でも、反芻したとき、苦労がきちんと返ってきたことあったっけ?

 

少なくとも僕の人生劇場にはそんな苦痛的な世界観は無かった。

他人の苦痛がやたらと感得されたことはあるが、変な話、苦痛も醍醐味ではありそう。しんどいことを喜々として語りたがり。

 

世界は語彙。

行動も語彙に囚われている。自分が何かをしている時にそれを描写する言葉がなくない?

 

僕は自分の行動を描写しないから、もこもこ靴下でスケートしたりする。

こんな行為には当然社会的因果はない。

 

説明が付く現象を皆大事に温めているみたいだが、そもそも自分の存在が説明付いてないということに気付いた方が良い。天動説ならぬ、地動説にもう一回返って来る。

 

なんの効用もない僕の文章を読んでいる時点で、貴方はだいぶ固有の存在です。

 

 

という世界観だと、誰と関係しても楽しいよな。

 

皆無限。

 

おやすみなさい。

 

宵世界を。

 

良い夢も。