寛容と怒りは同じ

 

 

 

21:45から。

 

なんだお久しぶりという感じ。

気を抜くと、文章体は存在し得ない。

 

まぁ、気を抜いているというか、単に生活上書く時間が無かったというだけだが、別にそれはそれで充実しているだけ。

 

2日前は、満月さんの会社の人が2人やってきて、満月さんが作った唐揚げとクラムチャウダーと海鮮とアボカドの和えものを食べながら現場の上層部会議をしているのを肴に、窓際でお酒を呑んでいた。仕事の話はよく分からないけども、なかなか細かいところを見ているという感じ。

 

これを聞いて女性は細かいところを見るものだとか、性質を一般化してしまうのは悪手。印象としての細かさを気にする部分はあるかもしれないけども、男社会で髪は眉毛の上とかと割と近いとも言える。細かいのではなく、最低限が細かいだけという解釈もできるし。

 

昨日はちょっと仕事で疲れていたし、体も疲れていたからお酒もそこそこでぐっすり寝た。

 

何故疲れたかというと、お客様の怒りに当てられたから。

人の怒号が好きな人は居ないと思うが、怒りがどれだけ影響するかは人それぞれ。僕の場合は、判断とか考えが鈍る。怒りを収めたいということではなく、動かせないものだし、もっと怒らせない為にはとか、自分はそれでどうその人を捉えるのかみたいな部分が、俯瞰的には居られなくなるというか。

 

ぐっすり寝る前はそういう感じが心を占めて居たのだが、朝起きてみたらなんのことは無かった。怒れる方がまぁまぁおかしい。怒られた現象よりもその人の世界観がどうで、何を求めているかに焦点を当てたらエネルギー効率が良い。

 

怒らないといけないときには怒った方が良いという見解も散見されるけれど、怒りを使った表現って情報が霧散して、何がポイントなのかが相手から見えなくなる。情報ではなく怒りを表現したいだけの話だったら分からなくもないが、それだと相手もどこを改善したら良いか分からないよなと。

 

このお客様も、人と話すのが苦手なのかもしれなくて、自分を守るための道具として怒りの表現しかできないのかもしれないなとか。語っている情報が100%自分の世界の事情でしかなくて、人生劇場でそこに合わせる人が存在していない感じ。世の中のほとんどを敵対関係としてしか眺められないのかもしれない。

 

どうにかその人にとって都合が良いところに落ち着いたら、怒りも治まって普通に話せる人になっていた。あれだけ当たり散らかした熱はどこに行ったのだろう。

 

この人が僕の心を占めているのかというと、占め方が雑いもんで、割とどうでも良いなという感じになってきたのが本日。ほんとうは燃料を投じないように接すれば良いだけで、今後そういう人が出て来たときには気を付けようと思うのだが、僕の人生劇場において舞台に上がって来て良い登場人物でもないなと。

 

てきとーに仕事上対処するだけの人物。

 

 

 

さておき。

 

たまたま面白い文章を書いている人を見つけて思わずフォローした。

情報自体が面白いというより、情報分析の視点が面白い読み味。もちろん僕の文章なんかより、出典がしっかり引用されているから、情報として読んでも美味しく感じる人は居ると思われる。きっと僕よりフォロワーさんも多いだろうし。

 

僕の見解も無引用なんてありえない。

そんなにオリジナリティとか創造性がある人ではないし。

 

ただ、論文じゃないのだから本文だけ読まれれば良いし、読まれる為の引用なんてできないんだよな。別に自分の見解に正しい出自があるなんて証明を求めるために書いている訳でもないし。

 

引用が面倒だというのもあるけれど、いちいち引用していると文章の流れが止まってしまうからやらないだけだと思われる。仕事だったらその時間もあるというか、仕事は証明できるような客観性がないと情報として認められない。

 

ざっくりとしか読めていないのだが、「寛容」の概念の話、面白かった。寛容という単語で読んだことを察知したAIが、現代では男性に寛容を求めるみたいなしょうもない記事をよこしてきてなかなかスクランブル。

 

この記事を書いている人の畑は知らないけども、史学っぽい感じはある。もしくは文学か。

 

寛容の概念がどうやって生まれて来たのかというと、宗教関係だというお話。

これはなんとなく納得できる。宗教が至上の価値観だった世界って、自分達が信じている世界が全てだから、その外の世界観を持っている人は排斥するしかない。最近流行っている「チ。」とかの世界観。皆習っている天動説から地動説への転換。

 

寛容が恐怖とセットであるみたいな話も書かれていたような気がする。

自分の外の世界の存在って怖いのが当たり前だし、干渉しないのも怖いけども、それが人口増えて来て色んな価値観が混在する世界では当たり前。

 

いまどき言われている多様性もこういう意味での寛容。自分が受け入れられる世界だと思っている人が多い気がするが、得体が知れないものを恐怖と同居しながら受け入れなきゃいけない世界だと思う。こういう世界の方が法律という最低限が生きてくるのかも。最低限は共通ルールとしつつ、その後は個人間の話にするという感じ。

 

ここで僕がふと思ったのは、「寛容」の概念って、政治的だよなというところ。

政治って個々の主観ではなく、全体の利害調整の為の概念であって、利害調整の道具として「戦争」とか「排斥」もありうる。日本に住んでいたらあんまりないけれど、外国のニュースを見ていたら(もう見ていないけども)、戦争は日常的にやっているし。

 

さらに穿つ。個人間の関係を利害調整だとみなすと、寛容も戦争も同じようなものだし、怒りも利害調整の道具として用いている人が居るのではという発想。

 

たしかに、物理的に集合するときは諸々の調整が必要だし、そこにやって来ない人は怒ってやってくるようにしないといけないかもしれない。怒らないとやって来ないような人はその特定の集団からはもはやご遠慮されそうだが、寛容な人が頑張って留めるのかも。

 

という感じで世界を眺めたとき、少なくとも僕は利害調整で人と接していない。

貰うことも与えることも金銭換算できないし、利害調整の天秤では測れない。

 

それに、僕はたぶん、そんなに寛容ではない。

怒らないだけであって、人を見切ることもないけれども、動くのを辞めた人にはまぁまぁ冷たいかも。動きの速度はそれぞれの人の体感だからどうでも良いけど、自分が動いてないことを世界のせいにするのはなんとも。

 

あぁ、これで言うと、怒りも主観というよりは利害調整の話なのだろうなと思った次第。

変な話、「寛容」と同じ階層の概念なのだろうなって。

 

あくまで個人的な見解ですとか注釈入れなくても良さげ。

 

 

満月さんは体調崩しているが、明日爽やかハンバーグを食べにいくのに備えてゆっくり静養している。この中で最上級のおでんを作るとか、なかなかやばい人(良い意味で)。

 

はい、この辺で。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。