人は理由で動かない

 

 

 

21:30から。

 

 

本日のメニューは豚キムチとレタスと玉ねぎに鰹節をかけたサラダと、おつとめ品で30円だったセロリの浅漬け。満月さん用に焼きそばを1玉買ってきて、豚キム焼きそばになる。

 

 

本日は休みだったのだが、あんまり休んだ気がしない。

なんだろうな、この感覚。意識と身体の動きに微妙なタイムラグがある。歳を取ったからとかみたいな、長期的なスパンでみた自分の稼働率とは違う。体が老化していくのは当たり前のことであって、昔の方が動けていたとか、今動いていない言い訳(理由)にしかならないようなことは言わない。

 

どんな時系列であれ、いま動ける可動域の中でどれだけ動けるかというだけ。

どちらかというと、可動域を使い切っていないことの方が問題なのか。

 

もっと可動域を使うのか。

 

人の意識は時系列関係なく、過去にも未來にも動ける。

過去だと思い出とか反省とか、未來だと保険とか余生とか。

 

昨夜さんの文章で、自分が退場した後の喪主を気にしているという話があった。

僕は誰が喪主であるとかどうでも良いし、なんならお葬式もして欲しくない。僕の退場を悼む場に集まるよりも当人それぞれが現実劇場に傾注してくれた方が嬉しい。

 

人は忘れらたときに退場するというのは、某漫画で有名なったフレーズだが、どこかの民族の言葉らしい。「ノルウェイの森」の直子もそんな意識で生きていたような。

 

別にこの見解の善悪を語っている訳ではなく、これも途方もない未来に意識が動いている証左よなというだけ。喪主が誰かを気にする人格はそのときには存在しないのに。いや、死後に恥ずかしがれる程の意識が残っているという説を取るのであればありうる。物体的な脳から離れた意識がどうなるのかなんて今のところ誰も知らないから、いくらでも想像して良い。

この想像が文学の源泉だろうし。

 

僕が誰かに忘れられても良いと思うのは、忘れないようにする場を設けなくても覚えている人は覚えているだろうし、強制的に思い出させるのもなんだかなぁという感じだから。誰かに覚えられている像から変化しているし、誰かに残っている僕像は、どちらかというより全くもって相手の物。

 

そういう感じで人を捉えると、現実的に接している人は常に更新可能性があって流動的な捉えどころがない人格であって、更新可能性が無くなったら自分の頭の中の大事な物置き場にしまっておいて、折に触れて取り出して眺めたり分析したりすれば良い。

 

同じ物でも見ている眼差しとしての自己は気分とか経験とかで変化していくから、普遍的な物は存在しない。普遍的に物があるとするのはフィクションであって、そうしないと社会が成り立たないからだと思う。

 

 

社会と理由の関係をふと思いついたのだが、たぶん誰にも共感されないと思う。

 

僕はあんまり自分の行動に対して理由を問わないし、満月さんに理由を問われても言語化しないことが多い。

 

例えば、「なんで私のことを好きなの」とか「私のどこを好きなの」とか。

僕はここを言語化するように捉えていないし、いや、もはや一緒に過ごしている期間が僕史上最長になっている時点で理由を言語化する必要なくないかという感じ。

 

こういう男はモテないのは知っている。

もはやモテる必要はないから問題無い。

 

この理由というか根拠というか、何故人はこれを求めるのだろうというところ。

 

法律学だと、結構ここはシビアなのか緩いのか微妙だが、何にせよルールが生まれた理由からから具体的な現実にそのルールが適用できるのかどうかが問われる。例えばで書き出すと長くなるし、法律パートは満月さんでも読まないらしいから、微妙に省略したい。適度な例も思いつかないし。

 

刑法上の正当防衛が許されるのは、原則的には国家が不正(犯罪)に対して取り締まりをする力を独占した方が不要な争いが起こらないのだが、国家が時間的に取り締まれないときに不正な行為をされた人が逃げるしかないとなると、そこを狙って不正行為をできるという意識が一般に拡がるからというり理由がある模様。

 

なんだっけ。

僕は理由で動いていないけれど、社会的な関係において約束事はだいたい守るし、頭痛とかでアポの予定を変更する理由にはならないのは知っている。友達じゃないのだから。

 

この理由って、どちらかというと動かなくて良いという自己がそのままで居るホメオスタシス言語化だと思うのだが、逆に自分が動くことに対しても理由があるとする人が多い。これは動機と呼んだ方が正しいのだろうが、個人的にはほんとにそこが性格なエネルギー源なのかと思っている。

 

理由がなんなのかとはともかく、動いた結果が全てだし、その後にどれだけ言語化されたところで繋がらないというか。

 

でも、自分が何かをしたと人に語るとき、理由とセットでないとあんまり伝わらないのも分かる。分かり易くは就職活動の志望動機とか。こうやって人は社会化されていく。

 

理由をこういう風に眺めると、結局は社会との繋がりの為のものなのではという解釈。

犯罪者がどうしてその犯罪をしたのかという動機が気になってしまうのも、社会が得体の知れないものだとすると安心できないから。

 

フェミニズムもこういう視点からきているのかも。

女性性の理由とか男性性の理由とか。個人的には結構不味い見解の塊なのだが、食わず嫌いは辞めるのが人生劇場の趣旨。

 

で、もう少し穿つと、シュールレアリスムって、人が理由的に世界を見る視界から自由になる試みなのではとふと思った。りんごはこういう風に書かれて初めりんごになるとかの理由付けを排して観た世界とはなんぞやみたいな。

 

満月さんが専門家なので、違うと言われるかもしれないが、理由と隔絶されて初めて世界がありのままに見えるというのはあるような。

 

今後の方針としては、もっと理由がある社会的世界のことを考えて仕事をするということ。

その理由に社会性が無いのであれば、友達じゃないんだからあんまり受け入れてはいけない。という感じ。

 

友達というか、知り合いであれば社会性が無いのは好物だが、仕事でこれをやっているとお仕事にならない。

 

もっと仕事上の人格を社会化していこうという次第。

 

プライベートは逆にもっと知ったこっちゃないで良き。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。