内省

 

 

 

23:01から。

 

今日は書かなくても良いような気もする。お腹いっぱいだし、こんな時間だし。

20分程放置していた。

 

23:22から仕切り直し。

 

本日はのんほいパークに行って来た。自然ではあるが、野生を放棄した猫ように仰向けに寝ているライオンが居るのは不自然。満月さんは寝落ちしているレッサーパンダに「働けよ」と呟いていた。

 

邪気は昇華されたような感じがするけれども、もっと何もない山とか海とかが良いような気もする。ただ、これって何かをする目的ありきではないから、誰かと一緒に行けるものでもない。自然が好きだからみたいな理由でもないから、キャンプ勢ともきっと合わないだろうし。

 

単に、調律とか整調とかそんな意味合い。

誰かに語らないといけないときは、結局それが好きだからという理由付けを加えて脚色することになるからちょっと変な話になる。

 

某メンタリストさんの動画で、頭の良い人が休みにすることベスト5の中に自然に触れるという話があった。他のこともだいたいやっていそうなのはともかく。ベスト5とかにしているのは、3とか5とか7までが人間の注意を引きやすいという心理学を使っているのだろうな。

 

自然に触れるのは、曰く、アイデアが浮かびやすいという理由。入って来る情報を無くして、内側に引きこもるというのもセットで考えると、たしかに自然は情報が自然だから、あんまりそのまま受けとっても考えにはならない。

 

自分の内側から出てくる考えに耳をすます時間を作らずに、情報を採り入れることしかしていないと、どこかで聞いたことしか話せなくなるというのは確かだと思う。この語彙の方が一般的に人に通じるから余計に楽だろうし。こういう人の語りは発話を聞いていても面白みがないとのことだが、面白さよりも伝わることが大事だとすれば、これはこれで良いような。

 

個人的なところだと、某メンタリストさんとは別に会って話してみたい気はしない。結構時間に追われているというか、言葉があんまり独自ではない感じがある。あえてそのキャラでやっているだけなのかもしれないけども、キャラでやっていていても人柄は出る訳で。

 

キャラと言えば、ゆっくりの音声って一律だけど(厳密には調律の技術もあるような気がするが)、中の人の語彙がにじみ出ている。

 

岡田斗司夫さんとはちょっと話してみたい感じがある。

この人の言葉は独自から一般に無理矢理合わせている感じだし、考える時間をいっぱい取っているのだろうなという読み味がある。

 

まぁ、僕は別にこういう人達と合うような立場ではないしけども、別に視聴者と投稿者の垣根をハードルとして捉えて居ないだけ。実際世界線が交わるようなことは、僕がズレない限りないと思う。あったら面白いけども。

 

ちなみに僕は、いつからか分からないけど、自分が無意識に使っている言葉の由来みたいなことを考えるようになった。人に頑張れということが嫌になったのは20代の頃だったような。こういうのは、言葉に流されがちの自分の中で使われる言葉を精査しないとしんどくなるなということだったのか、単なる探究心なのかは分からない。

 

自分の中での正確な言葉を探究すると言う意味では詩人みたい。

ただ、これは別に表現の為ではない。今のところは、自分の中で言語化がそれで適切なのかという精査の為。

 

健在的な意識の言葉って、無意識にほとんど響いていない。

安らかであって良いとか、思考は現実化するとか言い聞かせたところでなかなか動かないし。言葉によって動くのは人の表層でしかないという持論(今思いついた)は、そういう自覚があるから。

 

僕の無意識が動いたのは、言葉によって言い聞かすのを辞めたから。

理由を聞かれたところで、そんなものは無いとしか言えない。自分の言葉に耳を傾けることをしなくなったことで、他人の言葉の影響力が増えるということはあるのだろうが、耳から入った言葉が現実の体を動かすにはタイムラグがある。指示を聞いて機械的に動く仕事ならともかく。

 

やれやれ。

 

もうそろそろ眠気が来ているから最後。

 

 

昨日のタイトルの「縁側」という概念の話。

こういう毒にも薬にもならない言葉を考えるのは楽しい。書いたところで自粛する必要がないし。

 

そういえば、放送中止になったアニメの動画を今朝見ていたのだが、現実の情勢によって表現が自粛されないといけない世界っておかしいと思った。なんというか、表現物が現実と同列みたいに格上げされているという意味で捉えれば良いとも言えるけど、個人的には表現物は現実とは隔絶しているから楽しめるのであって、現実の悲惨な事件を想起させるとかとばっちりでしかない。

 

混同するくらいなら見なければ良いだけ。今やアニメは勝手に流れてくるものでもないし、現実の家庭がコントロールできるだろうし。世界観の当たり前は表現物が担うところではない。

 

公開というか公共のスペース置かれる表現物はある程度コントロールされるべきだとは思う。駅構内にポルノポスターとか。いや、個人的には別に公開されていても良い気はしている。ここら辺は表現の自由というよりは、公共物の管理者の選定問題。

 

美術館とはまた違う。

 

悪影響だからという理由は、なんの根拠にもなっていないと思っている。

根拠を示すならもっと実体的なものにしないと、主張者の主観でしかないような。

 

 

また迷子した。

 

戻って来て。

 

縁という言葉って面白い。「えん」と「ふち」という読み方がある。どちらも同じような意味。生活と非生活の境界。自分が止まり木みたいな存在だと思っていた頃がある。今もまぁまぁ思っているのはともかく。関係する誰かは僕を止まり木にしてちょっと凭れたあと、自分の生活に帰っていくみたいな。

 

これって縁側とも疑似。

縁側的な存在って、生活のことを考えなくても良い、単なる陽だまりみたいな存在であって、暖を取った後は離れても問題ない。たしかに僕は去るものは追わない質。

 

まぁ満月さんは変人だから、老人になった後に縁側で2人してお茶を飲むことまで想定している模様。そのうち僕に飽きるかもしれないとは思わなくても良いみたい。僕も飽きないし。そのうちもっと動き出しそうという予感めいている人。

 

もう1つの縁側解釈としては、誰かの世界観とその人が見えない世界の境界に在るということ。割とここも好き。例えば善悪の世界観だとしたら、縁側ってどちらでもない。なんなら中庸でもなく不戦区域でもなく、のほほんと観戦している感じ。

 

どこにも居ないような、それでも1つの現実の人として存在している感じで良いのだろうなと思ってきている。生きる使命も意義も不要。

 

はい、こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。