縁側
22:04から。
明日は2人共休みだから、本日は居酒屋メニューが良いとのこと。満月さん用の酎ハイも2本ほど買ってきた。喉の調子を考えて、ほろ酔いのはちみつレモンと、黒い缶のりんごとジンジャー。たぶんどちらかしか飲めないから、好きな方を気分で選べばいい。
メインの肉は、豚しゃぶとアボカドと玉ねぎのサラダをリクエストされた。Xの画像が送られてきて、ドレッシングのレシピもあった。塩、コショウ、オリーブオイル、酢、醤油だったか。これだとちょっとパンチが弱いからにんにくチューブも加える。
副菜というか1品物。もやしのコチュジャンナムルと、冷蔵庫に残っているキャベツと人参をレンチンしてツナ缶を加えてハーブソルトとマヨネーズとオリーブオイルで和えたもの。お通しをイメージ。
このタイミングでお風呂に入って本を読む。読みながら、もう1品くらいタンパク質要素が欲しいし、居酒屋と言えばこれを頼むというものを作る。個人的にはたこわさが好き。たこがあれば我が家の調味料で作れるのだが、たこを買っていなかったから断念。
居酒屋のだし巻卵ってだいたい外れがない。今回作ったのは白だしを入れたから若干家庭的な感じになってしまったが、割とうまく巻けた。卵焼きを上手く巻くコツは、卵を2個以上使うこと。1人暮らしのときは1個でやっていたのだが、なかなか難しかった。玉子焼きフライパンに慣れると1個でもできなくはない。
仕事が終わって時間をかけずに4品。
名前が付いている料理だと工程がいっぱいあったり揚げたりがあるから、なかなかこうはいかない。だし巻卵は時間はかからないけども、技術を習得するために少々時間がかかる。まだ玉子焼き機をえらばずに作れる気はしないから技術が足りていない。
前置き長いな。
さておき。
お仕事は、まぁまぁ。成果には繋がらなかったが、時間に追われるみたいな感覚がちょっとずつ薄まっている。ちゃんとルーティーンの時間は確保しつつ、イレギュラーの事態にも対応できるというか。
応対は相変わらず難しい。
人と接することなのだからコントロールできない領域はどんなベテランでも絶対残るはずだとしても、もっとコントロールできる領域を増やしていくべき。
難しいという概念は、個人的に越えられないことではなく、登っていけば良いかなということであって、絶望には至らない。分からないことの方が絶壁であって、分からないことから分かることになるのは、結構決死のジャンプが必要だと思う。
店長はぬるま湯につかりながら仕事をせずに試行錯誤する人物であれば当たりが強くなさそうだから、割と相性が良さげ。師走ですげぇ忙しそうだから体調崩さないと良いな。
どうでも良い話。
高校数学+αという本を何周もしているのだが、行列の概念がどうしようもなく絶壁。冒頭文から理屈が分からない。Pとかqが消えたと思ったら何故か出てくる。あと何周したら分かるようになるかが途方もない。まぁ、こういう絶壁をジャンプするのも好きだし、なんとかならなくても問題ないからぴょんぴょんして墜落しまくったらいいかなという次第。
やれやれ。
お風呂読書の話。
現代詩入門の言葉の道具性の話がよく分かってしまう。
僕は詩人ではない。満月さんは詩人めいているのだが、なんとなく詩を読む味覚は近いような気がする。最近流行っている詩人さんが嫌いだというのは、言葉を道具として扱うことを蔑ろにしているという意識を読み取っているのではとか。
別にいいとか悪いの話ではないのだが、詩人は自分にとって言葉を正確に扱うことを意識すべきであって、読者におもねるのは違うよねという話。
闇とか孤独みたいな言葉は、かなり強い言葉であって、どうあっても共通項で読まれてしまう。山とか川とかの一般的な固有名詞は読んだ人の印象に完全に任されてしまう。生きてきた環境によってどの山として、川として読まれるのが変ってしまうのが良い。僕の「山」は「京の森」だし、「川」は「鹿野川」だったり。地元が知れるだけであって、今住んでいるところとは違うから問題はない。
個人的に、固有名詞として最も色合いが変わる言葉は「部屋」だと思う。
この話面白いのかなと思いつつ。
環境上過ごしてきた部屋はそれぞれある。僕が1人部屋で過ごせるようになったのが16歳くらいの頃だったけども、家には家族が居た。その前は二段ベットで変な話、ずっと自分が選んでいない他人と過ごすことになる。逆から考えればというだけだが、血のつながりがある家族だから完全な他人より近いという感覚は錯覚だと思っている。これも縁だと解釈すれば、やや色合いは変わるのだが。
で、その後で、大学に入って完全に1人暮らしになった。
なんとも解放感。大学に近い部屋だったから、寄生しがちな地元民も居たが、あんまり長いと拒否した。距離感大事。この辺りで縁側性質が発揮され出す。恋人なのかそうではないのかという人が幾ばくか。
大学院の時は、もっとみすぼらしいワンルームだった。
他人と生活する余地が無いはずが、この部屋で同棲生活が起こる。自分が選んだ人だから問題は無いとはいえ、そうとう気を遣ってくれたんだろうなと思う。
同棲生活が終わって、気楽な独り身になりつつ、ちょこちょこ諸々ありつつ。誰も来られないような部屋に幼女がやってくるとか。「こんな汚いキッチンから、こんなに美味しいお鍋ができるとは」と幼女に感嘆されたこととか。
この時機に本が増えてきた。
孤独を埋める為ではなく、単に人生劇場の参加者として。
「部屋」って基本的に物理的に生活と世界を区切っている読み味だと思うが、本質的には自分が精神的に存在している場所という感覚があるような気がする。これをいっしょくたにしている人もきっと多いだろうな。
自分の精神と他人なり世界が分かたれたところに在るのがその人にとってのお部屋という解釈。
僕は部屋によって自己と世界を分けることをしなくなった。部屋の感覚は大学時代くらいの頃に村上さんの作品を読んで、そうなのかもなと思っていたが、いまはそういう分け方をしたところで、自分は特に守られないよなという気分。
守らなくても、絶対的に存在できるのが自己だろうなと。
こういうのは宗教的かもしれないが、他人に適用できると思っていないから宗教にはできない。
はい、本日はここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。