焦らない

 

 

 

21:58から。

 

 

本日、なんだかめちゃくちゃ怒っている。

憤怒氏が出てくることはほとんどないし、世界に対して怒っている訳ではないから、別に問題はない。

 

憤怒よりも焦りの方がやらかす率は高い。

焦り焦点がぼやけてどうしようもなく死角ができる。焦らないといけないようになっている社会のデザインって、なんとなく不完全。

 

とりあえず憤怒氏はおいて置く。

自己を守らないと怒る人なのだが、別に他人には怒らないし、文章にも不具合はない。

 

 

さておき。

 

本日は新人から一般人になる研修があった。

 

かなり為になる。新卒の人はもっとじっくりやっていくのだろうけど、中途では教えられないような情報がたくさんあった。きっと店長も先輩女子も体現しているのだろうけども、知らないことって分かる分からない以前に質問しようもないと思う。

 

ちなみに、面白みもある程度知らないと分からない。

好奇心は知らないことに踏み込む原動力にはなるけれど、踏み込んだ後に楽しさを感じるためにはある程度できるようにならないといけない。僕の囲碁はまさにそんな感じ。「ヒカルの碁」から好奇心でちょくちょく踏み込んでいるが、なかなかその先にいけない。将棋の定跡は浅瀬でばしゃばしゃやるくらいには分かるのだが、囲碁の定石はちんぷんかんぷん。

 

 

そういえば、資本主義の話。

商法とか会社法とかは資本主義を滞りなく循環させるためにあるという話が、「民法から見る商法・会社法」という本の冒頭にあった。このシステムについては分からなくもないし、いちいち個人に辿り着く前に代理(代表)によって契約締結の権限があるとみなすというのは、これだけ強大になった法人とやりとりする為には大事だと思う。

 

これとは別の思索として、資本主義とは何ぞやということ。

資本はお金みたいなことになっているけども、別に信用で代わりができるし、それほどお金で一義とはされない。

 

個人的にお金持ちになるには覚悟が要ると思っていて、何故かというと、誰かを蹴落として自分の利益にするとかではなく、得体の知れないお金(資本)でぶくぶく太る感じというか、あっても僕は本を買うとか、ビールが一番搾りで安定するくらいしかないのだが、それでももうちょっと楽して良いよなという感じ。能力があるというより、運の方向をそっちに持って行ってもいいかなというくらい。

 

ちょっと逸れた。

 

資本主義の起源ってちょっと分からない。株式会社は資本主義の権化だと思うが、その前にも起こりはあったと思われるし。

 

ただ、資本主義って「焦り」を原動力にしたシステムなのかなとふと思った。

これが結論であり、思索の起源。

 

物を資本とすれば鮮度をもって提供しないといけない。鮮度が落ちれば価値が落ちる、ないしは0になる。この逆説として、お金に利子をつけてみたと考えるとバランスが取れているような。僕はバブル世代よりちょっと後だから、お金にずんずん利子が付く世界を経験していないけども、金銭に利子が付く必然的な理屈がよく分かっていない。ほんとにお金を貯め込むことが幸せなら、使わずに穴倉に隠しておくのが良いはずだが、世界はそうはなっていないし。

 

物(資本)の価値が鮮度とか流行によるみたいなのは資本主義とは別物と言われてしまうかもしれないけども、結構親和性があるようにも思う。例えば女性の価値は経年によって落ちるみたいな価値観は、市場価値みたいなものであって、まんま資本主義なような。

 

もちろん、子をなすことは社会的に価値があることだというものさしからすれば、母子にとってもっともタイミングが良い人の価値が上がるのは分かる。ここはあくまで1つのものさし。僕は別に誰かと子をなす為に番になる訳でもないから、どうでも良い指標ではあるが、社会的にはそうやって子供を産んでくれないと構成員が継続しないということだと思う。だから優遇される訳で、価値が高いかどうかとは別の指標なような。

 

個人的に市場価値がほとんどないような人物だとは自覚しているのだが、ここのものさしにおいて退場したくはならない。そんな主義知ったことではないというか、そんな指標で選ぶ人に選ばれたくないというか。

 

「焦り」が努力に繋がるという意味では、競争も奨励されるべきという価値観が納得できるのは、資本主義が先にある気がする。これが生物学的な人間を捉えた統計的な成果だとしたら、人間味を欠いている。焦ってないときの方が人の本質だし、焦らないと動かないというのはきっと思い込み、いや刷り込み。

 

ここで、社会主義って現実味がないからという理由で排斥されて一般化されていないけど、サブスクって社会主義っぽいような(素人意見)。デザインの仕方によってはこちらの方が人間的な気がする。頑張った人個人に価値があるというより、価値を皆でシェアしましょうみたいな。

 

焦りといえば、昔はテレビもそのタイミングでテレビの前に居なくて見逃したらもうしばらく見られなかったけど、今は録画できなくても、配信サービスがあったりする。焦りを原動力にして視聴率を得る所作が成り立たなくなった証左。

 

 

焦らなくてしたいことをできるのが良い社会のデザインだと思うけども、そうなったら何もしないというはあんまり人間的ではないような気がするから、そこを危惧する層が踏み込むことを躊躇しているのかもしれない。あと、既得権益

 

人間である定義って、一生変化せざるを得ないことだと思うのだが、あんまり賛同は得られないと思う。感情が自分を決めつけるから。

 

僕の憤怒氏案件の話も1つはしておく。

 

本日冬至だから柚子の入浴剤を買って、一緒にお風呂に入るという話になっていた。

で、僕が入っているときに、満月さんが「一緒に入って良いですか」と聞く。

 

僕は「うん」と答えたのだが、僕の音量が低いせいで聞こえていなかった。

もう1回聞かれて、「ヴん」と音量強めて言ったら、「なんでそんなに当たりが強いのですか」と聞かれて、一緒に入ることは無かった。音量強めるの、だから嫌。

 

ほんとうは、当たり強くしていないよという言うべき場面なのは分かる。

でも、この後の問答を考えて、硯が当たり強めに言ったから入らなかったって他責的に言われたら、問答すること自体に意味を感じなくて。

 

好きなのかと問われれば好きで良いのだが、こういう問答をする為に一緒に居るのかと言われると首が傾く。

 

憤怒氏はここを問題としているのではないのだが、たまたまの一例。

少なくとも僕にとってはこれによって離れることになるという案件ではない。

 

僕の中に居る憤怒氏は自他にまぁまぁ優しい。

と、勝手に思っている。

 

こんな感じでおしまい。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。