不合理

 

 

 

22:16から。

 

 

雪を見た。仕事で山奥に行っていたから葉っぱが散っているのかと思ったが、どうやら違ったらしい。下界が3度だったら、上は氷点下であってしかるべく。

 

 

ガーリックライスうまい。

名も無き料理をいくつか作ったが、この話は省略。

 

 

さておき。

 

 

お仕事。

 

なかなか一筋縄でいかない案件が多いのだが、怒気に当てられる訳ではないからきちんと研鑽できている。

 

なんというか、僕の素朴は人と関係しなくても過ごせる。孤独に耐えられないだろうという反論が出てきそうだが、それは20代くらいに克服した。というか、孤独感って誰と居ようが自分で在る限り、拭われるものではない。

 

世界と繋がっていないという感覚を仮に相対的孤独と呼ぶのであれば、誰かと関係していることで、独りではないということになるし、孤独では無いとなるのかもしれない。

 

ただ、最初でも最後でも同じところにある孤独は、自己は他人とは別の存在であるという孤独であって、これを絶対的孤独と呼ぶとすれば、孤独は拭えるものではなく、馴れたり慣れたりするものでしかなくなる。ここは早かれ遅かれ誰もが向き合わないといけない孤独だと思われる。

 

別に1人で絶対に過ごしたい人でもないが、孤独を拭うために誰かと接したい訳でもない。億劫だから人に接したくない訳でも無く、単に省エネのために人脈を拡げないということも考えられる。1人だと自在だという感覚というより、他人が関わってくると劇場が影響されて動いてしまうというという感覚。

 

1人が楽だというのは分かるのだが、他人と関われば自分が制限されてしまうという感覚とは微妙に違う気がする。たしかに、もともとの自分のままで人と関わるのは法令とか道徳に従っていても難しい。当たり前が違うし、当たり前の中の当人の人生劇場に引き込んだ方が誰しも省エネになるし。

 

色々書いたが、本日ふと思ったのは、僕は仕事にかこつけて私的に関係することなく人の劇場を読む生活をしているなということ。エネルギーはもちろん使うのだが、使われるエネルギーは物理的なカロリーでしかないのが違う。

 

生活環境を変えるところをお仕事にするのは、結構重大な責任がある仕事だと思うが、これって本当に重大なのかということも思索。変な話、完全に合理的判断ができる領域ではないし、行動経済学の領分。

 

ここで、店長が良く言う、「理由を聞いてみる」という話が出てくる。

何故そういう選択をしたかって自覚がないことが多いし、その自覚が言語化されたとき、情報量が多いこちら側にもっとできることがあるかもしれないよねということ。

 

理由を聞くって、関係が悪いと相手にとり非難されている気分になることもある。関係が良ければ自分の話を聞いてくれるのかとなる。同じ聞き方でも意味合いが全く変わってくる。

 

僕はあんまり理由を気にして生きていないからアレだが、そういえば前職の先生も理由をやたらと気にしていた。合理の領域に入るというより、社会性の枠なのかも。理由によって、社会的な色付けが変って来る。

 

どんな人も私的な枠の中での価値観はあると思うが、それが社会における説得性があるのかというと微妙な話だから、調律が必要になってくる。そこが合っていないお客様がやってくることが多い。

 

ちなみに僕個人の価値観だと全く社会性は無い。

擬態しているだけであって、結果的にまぁまぁになっているだけ。

 

 

今日あんまり書けていないのだが、洗濯もしていたし、文章にかける時間があんまり無かっただけであって調子が悪い訳でもない。

 

 

村上さんのかえるくんの短編のグロさは至上という話もあるのだが省略して、最後に聖書の話をしておしまい。

 

エデンから人間が退場させられたところまで読んだ。

 

読み味だと、なんで人間が最後に生まれたのかというところが気になる。

大事だからとか、複雑だからとかだと、大気とかの方が複雑だろうし、個人的には気まぐれで神様が自分と同じような存在を後付けで創造してみた感が強い。これを経典としたら、たしかに人間は罪悪感を原罪とするしかない。

 

だから神様を信じて行動しましょうというのは、道徳上の、食べてすぐ寝たら牛になるみたいなところと似ている。

 

個人的には何にせよ、外的なところから自分の行動が変化できる指針はあって良いと思う。神様なのか啓発なのか意志なのかはどれでも良い。

 

1人の世界ではない世界を啓発するような世界観を持った宗教なり道徳ができたら良いと思わなくもないが、絶対的孤独の裏返しで、自分の劇場に合う世界を求めるのだろうな。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。