毎日書き足りない

 

 

22:25から。

 

仕事納めがそりゃあまぁ忙しかった。一応懸念だったことはなんとかなって、また新たな懸念が生まれてくる。それがお仕事ということ。

 

満月さんがお休みなもんで、本日は満月さん料理。ローストチキンとマーボー春雨とアボカドと生ハムの和え物。完成度もそうだし名前が付いている料理は満月さんの方が遥かにレパートリー多い。

 

さておきというか、本日仕事に向かっている最中、不安感が半端なかった。ちゃんと懸念が解消するのかというお話でもない。懸念が解消して安心できるように仕事は構成されていない。

 

そうではなくて、これまでとこれからの切り替えに対する不安感なのだろうなと。

別にこれはこれで良い気がする。不安は感情ではなく解釈だし、安心して動かなくなるのも違うし。と、自分をメタ的に観れば良い傾向だと思うのだが、当人居たたまれなさが半端なくて大変。〇にたい気分が満載になる。

 

不安と期待は同列だけど、喜怒哀楽よりちょっと高次にあるかもな。

不安だから悲しいということもありうるし、不安だけど嬉しいもありうる。期待も同じようなもので、感情に還元されるときに必ずしもプラスになるとは限らない。

 

ほんと、社会って自分では居られない。

あまり関わって来なかったからちょっとした不具合が生じているけども、不安感はずっと抱きながら、割とまだまだいけるような気がしないでもない。

 

エネルギーをあんまり使って居ないという訳でもないけれど、仕事で成果を上げることによる影響はまだしも、僕がこのちゃらんぽらんで普通の人と接して良いのかという制限を解放した方がより楽しそう。やばさで言うと、別に犯罪係数は皆無だし、価値観を狂わせてしまう可能性があるというくらいだが、価値観を狂わせうるかもしれないというのは思い込みでしかない可能性もある。だったらいいじゃんという気もするのだが、ほんとにどうでも良い話を展開して相手が楽しめるかどうかが気になるところ。

 

まぁ、僕の文章を一定数の人が共感とは無関係で読めるということは、僕はもう少し社会的にも自分で在っていいという証拠にはなりそうだが、どうなのだろう。

 

どこでも自分で居られるというのは社会の寵児であって社会に疑問を抱かずに済む人。疑問を抱いていても、それが当たり前で理不尽と想えるのであればこれも社会の寵児。

 

例えば、自己の意志で退場することに罪とかけしからんと想うのはキリスト教由来であって、実際は退場する因果は、事故とか病気とか退場したくないのに退場しない場合も多いと思う。これって、残された人の悲しさに優劣が付く訳がないのだが、自己退場以外の理由はなんとなくしょうがないと捉えらるように見受けられる。結果的に存在しなくなったことに対して、何故自己退場だけが変な感じに捉えられるかが不明。

 

意志を非難しているのか、それを踏みとどまれせれられなかった自分を責めているのかが分からない。僕がポーズでない自己退場の意志を持った人と関係したことがないからあんまりよく分かっていない。面白いことは世の中にいっぱいあるよと言ったところで、当人をメタ的に把握できてないと無理だろうし。僕ができることとしては、その人が僕の世界から居なくなると寂しくなるよって言うくらいか。

 

退場で言えば、面白くて読んでいた人の記事が更新されなくなったことも割と同列だと思っている。世界というか人生劇場って、あくまで主観で構成されているものだから、関係が離れた人がどこかで生きていたとしても、当人に観測できなくなった時点で、劇場からは退場しているという解釈。

 

こういうちゃらんぽらんな考え方からすれば、人が生きているか退場しているかは存在感として違いがない。日々現実として接しているお客様と退場してもう20年程になる父親の存在感って父親の方が強いかもしれない。

 

強いから影響力があるというのも微妙に違う。

父親に関しては、もう現実的な影響力はない、更新が一方的であるからして。

 

社会構成主義の真理の話はまた明日にしよう。

 

何処が主体なのかという意味で面白そう。

 

 

最後。

 

この主義からすると、というより素朴な話。

 

個人的に、世界自体が食べ物だと思っている。

だもんで、テレビも垂れ流さないし、SNSでフォローしている人も毎日更新する人は居ないし。

 

垂れ流されている情報をただ読むだけだったら胃もたれする気がするのだが、そこに浸っている人は胃もたれが常態だから気付かない。

 

要は、ちゃんと自分で決めた情報を採り入れているかどうか。

 

僕の文章は決めないと読めないだろうという気がするのだが、変質的な人には共感的に読める部分があるかもしれない。完全な陰謀論には共感できません。

 

別にそこまでいっぱいの人に読まれたい感覚もないし、独りよがりだから分かる人に読まれれば良いでもない。

 

こんなちゃらんぽらんな塩梅でしか書いていないから、然るべく読まれれば良き。

 

今日はここまで。

 

ここから夜のお時間。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。