あてられ

 

 

 

22:06から。

 

 

スケールが小さくなっている。

これは自分の身の丈の世界という意味では良い感じな気がする。ただ、これだと面白くないし、結構ポンコツになってしまう。本日やらかしがあったのだが、これは身の丈の世界でないと起こらないような気がする。自分を俯瞰できる視点があれば、という意味。次から焦点を当て過ぎないように気を付けよう。

 

昨日はかなり無気力になって、帰って来た時間としてお風呂読書はともかく日記を書く時間はあったのに、雑炊をちょろっと食べてそのまま寝てしまった。身の丈の世界ってなかなか自分が動かない。ここの価値観でせくせく動ける人は凄いと思う。ここだと義務ないし動機がないと動けないのに。

 

「楽しそう」という原動力は厳密に言えば動機に含まれない。経験則で楽しいと知っていることを再現しようとするのであれば動機だけども、楽しそうは実際に楽しいかどうかは分からないから、動いたところでご褒美があるかどうか不明。

 

 

 

さておき。

 

 

少し道徳について実践的に考えてみる。

 

微妙に調子が悪そうなのは、店長の身内の不幸の話を聞いて当てられているのではないという解釈もある。特に悲しそうに語っている訳ではないのだが、それが逆に響くという感じ。こういうとき、特にこちらから話せることはない。喪主が3回めということだし、永く舞台に立った人1人が退場する空白は、周りの忙しさという現実的な穴埋めを必要とする。

 

道徳感を度外視すると、店長の身内の空白はその身内の方に会ったこともないし、見知った人の身内はほぼ他人でしかないから、空白になったところで影響は無いように思えるのだが、軽口の発言を聞けば聞くほど、店長が空白を痛感しているのだろうなという読書脳が働いてしまう。これは同情でも共感でもなく、単なるそういう風に読める感じがするというだけ。

 

その話の流れで面白いなと思ったところ。

我が父親は僕が高3の時に脳梗塞で倒れてそのまま意識を戻すことなく退場したのだが、その話をすると、「家で倒れて良かったね」と言われた。

 

運転中に倒れて、誰か他の人を巻き込んでしまったらよろしくないよねという流れ。たしかにその通り。ただ、なんとなく、まさに現在の道徳感であるという気がした。ぱたんと倒れる危険は誰しも内包しているのだが、なるべく社会に危険がないようにという価値観。早く自動運転普及しろとなる。

 

なんというかこういう言って、内面の空白を社会に外化している感じ。心理学の専門用語だと合理化と言うのだっけ。まぁそうやって解釈しないといけないほど人の空白は虚ろであるということかもしれない。

 

別に良いとか悪いとかではないのだが、僕は父親の退場を合理化していない。本日のお客様ともそういう話になったのだが、この話をすると、「お母さん大変だったね」と言われた。もちろんこれもたしかに。そりゃあ退場した人の舞台はそれまでだけど、退場していない人はその空白を埋めないといけないし。

 

感情というか道徳としては分かるのだが、なんとなくほんまか? という気分になる。

社会的に個人が退場した空白はそう語られるしかないというも分かるのだが、ほんとの内面の解釈はきっと違うのだろうなと思っている。外化に落とし込めないから、空白は時間の波に流されることがない。

 

道徳を疑うというというのは今読んでいる「道徳の系譜学」から。ただ、僕はずっともともと道徳という価値観については疑っていた。ニーチェさんほど知識が無いから、そもそも道徳はどういう経緯で生まれたのかまで考えは至らなかったが、ある事象に対してこう解釈すべきみたいな今で言うところのAIが答えてくれるみたいなのが道徳であって、特に人ってこの解釈の疑義について考えていないよなって思っていた。

 

今、少々知識がまぶされてきた頭で考えるのであれば、道徳って遺伝的・生理的な意味合いでの効率性を言語化しているという節がありそうな。法律が原初の道徳の延長を担っている感じではあるけれど、法律はあくまで最低限国家が介入すべきことを規定している。税法とかは知らん。秩序を保つ為の予算と人件費を最低限確保するようにはデザインされていないような気がするけども、知らないことを語るのは妄想でしかない。

 

こういう風に振る舞えば、その場で仲間として認識されるというルールの結晶が道徳の原初だったのだろうな。そのときはきっと道徳とは呼ばれていないし、概念として言語化もされて居なかったのかも。言葉が無い時代だと、振る舞いがアウトだったらもうこの柵で囲われた村から追放するかとなって、追放された人は生き延びられなくなる。

 

で、道徳という概念ができたのは、もっと色んな価値観の人を含める余剰ができるようになったから、人の行動を統制するを越えて、人の感情を統制するところまでに至る。

 

こういう感情を抱かないといけないという観念って割とディストピア的な世界観だが、割と現在にも浸透している感じがある。物理法則と感情法則は違う。

 

感情とはなんぞやという話に繋がっていきそうだけど、本日はここまで。

 

僕は、なんだかんだ、なかなか元気です。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。