音信

 

 

22:15から。

 

今日もこんばんは。

 

満月さんが帰って来た。

直に言うと調子が上がり過ぎるかもしれないから言わないが、昨日の夜から本日の朝にかけて、微妙に調子が乗らなかった。寝付きも悪いし、何か変な夢を見て夜中に目が覚める。

 

なるほど、これが具体的な淋しさということか。

 

読書感想文は、もう1歩書いて欲しかったと言われる。

別に駄目出しではなくて、踏み込みが足りないという意味。まぁ、ざっくり読んだから仕方がない。じっくり読むということは基本的にできないから何周か読んでみて自然に気付くことを書いたら良いに違いない。

 

たぶん筆者が気付かないところにも気付く。いや読書ってそんなものだから、特に筆者が目の前に居たとしても答え合わせする気が無い。こう読んで欲しいというプロットを作って書く人なら、書いた通りに読んで欲しいという思惑があるのかもしれないけども、それでそう読まれなかったら、責任は書く側の手腕にある。

 

そもそも完璧に書かれたように読まれる物語は定義として物語にはなっていない気もする。物語って、書かれたものと読み手が寄り添って意味を見出すものとしたい。

 

 

 

曰く、特に起承転結は意識しておらず、主人公の女の子を自由に動かしたらああいう小説になったということ。なかなかの天才肌。最後の締めは女の子をちゃんと帰らせるために意識的に書いたとか。なるほど、だからあの行動なのか。

 

僕は自分しか勝手に動かせない。だからある意味現実が小説っぽい。主人公は僕だけど主人公補正は特にない。ちょっと俯瞰的に焦点を当てながら身体から付かず離れず、世界と自分を眺めている。

 

ここの文章は割とそういう感じで書いているから、自分のことでも他人事として描写されることがあると思う。ここも別に知ったことではなく自分のことだから自責だけど、そこまで自己像に浸って居ないというニュアンス。

 

 

ちょっとここから(僕が)面白くて。

 

お仕事の話。

 

人間って知っていることが増えることによって好きになるという生き物であるというのがゆっくり解説YouTubeでやっていたのだが、まさにそんな感じ。馴れるまで訓練しないと物事の面白みが分からないようにできている。仕事がしんどいのは学校の強制的なお勉強と同じで、拘束がメインであって面白みなんて感じなくて良いという感じだから。

 

個人的に社会的な対話とか会話が苦手なのは自覚していて、昨日、某メンタリストさんの動画で学習した。この人、炎上して風評は悪いみたいだが、社会的なやり取りに関しては参考になる。研究結果の論文を下敷きにしているし(僕も外国の論文を読むようになりそう)。

 

参考になったのは、人が会話で盛り上がるのは、至高で希少的な体験の話題ではなく、くだらない話だというもの。くだらないというのはどうでも良いともつまらないとも言い換えられるけども、要は、聞き手が共有できる「あるある」の話。

 

だから、本日のお仕事でお客様とお話する際、そういう発話を増やすことにした。

僕の個人的な視界の中のどうでも良さの中のなおかつ「あるある」だろうなというところ。読書の話とか思考の話はできなくて、もっと素朴な肌感。

 

どうでも良い話って、人に考えさせるようなものであってはならない。

あくまで肌感として共有できるかどうか。

 

難しく考える必要はなくて、相手がどういう会話を展開しているかを聞いて、その世界観に合うようなどうでも良い話をする。もちろん、相手の話を聞く時も同じ。肌感を合わせて共有する。実際できるからからする。

 

例えばにすると不謹慎かもしれないが、お互いが当事者になっていない災害の話題とか。肌感として哀悼の念が一致するから、なんとも大変だ、以降考える必要がない。

 

あとはあるあるの応用として、具体的なお互いの状況が一致する話。

文学畑の人には文学あるある話があるし、サービス業で土日祝が休めなくて平日にしか休日がない場合は、平日あるあるがある。火曜水曜は行きたいお店が定休日なことが多いとか。

 

こういうのって、別にスキルではなく、個人的には自分の中にある一部を表に出すだけで良いなと思ったのが本日のお仕事。共感ではなくて共有であればいくらでもできそうだなと。共有されることを共感されると捉えるかどうかは相手の問題だし、ここはだいたい一緒くたになっていると思われる。

 

共感と共有の違いは、共感は感情と、共有は状況と共にすることなのかとこの瞬間ざっくり考えた。共感の定義が感覚を共有するだったらもっとできると思うが、感情だと波打ってしまう。

 

で、いつもは使って無かったエネルギーをいっぱい遣ったはずなのだが、仕事が終わったあとに全然疲れていない。これって、こういった社会的交流によって共有エネルギーが循環しているのではという説。ここは消費の概念ではない可能性。

 

笑顔とか気遣いの言葉とか、それに対する感謝みたいなところも共有領域なような。

変な話、社会的に守るべき義務ではなく、守るべき共有資産だったみたいな。

 

これって某メンタリストさん的には相手を操作する手法みたいなことなのかもしれないけども、個人的にはここって別に相手も自分もコントロールされていないなという感じがした。影響して影響されるのが人間関係の本質だろうし、僕も相手のあるある話を楽しく共有できているし。

 

この世界だったら、このお仕事もっと楽しくできるなという発見があった1日。

 

 

とはいえ。

 

ここの文章においてあるある話で共有できる人を増やす気は一切ない。

 

ある意味個人的な空間だけど、完全な個人的空間だったら、紙媒体の日記帳に綴れば良い。誰にも見せない日記帳に毎日書き続けるのも良いって岡田斗司夫さんが言っていたような。いや、日記ではなくて思考帳だったかもしれない。

 

考えるために書いているところにあるある共有は不要だし、あるある共有の為に書かれている文章も特に読みたくない。

 

この空間は社会的なやりとりを離れて、お互い個人的にたまたま交錯したら面白いなというだけ。お互いがお互いの文章を勝手に解釈したら良いし、読んだという証拠無しに読めば良いし、そこから勝手に何か考え込むのも楽しい。

 

という領域が違う世界だと思っているのだが、それでも時々やってくる挨拶とかコメントは嬉しい限り。だって、礼儀を強制とも当たり前ともしていないのに、あえてくれるのですから。不要なのにされることって逆に嬉しくない?

 

スキ印についてはあるある界からやってきた共有なのかどうか微妙なところ。

 

でも、実際あんまり気にしてない。

読んだ印としての足跡みたいなことが多いのかなと。

 

僕がぽちっとするのは、好きであるというより(馴れてないのに好きとはおこがましい)、なんというか、書いている人に対してファイト! というニュアンスが強い。下手したら上から目線と捉えられそうだが、その人にはなれないし、試行錯誤しているのを読んで、一緒に人生劇場を楽しんでいきましょうなという気分なだけ。

 

何かよく分からない方向に行きそうなのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。