変化

 

 

22:12から。

 

本日は満月さんが実家に帰っている。別居ではない。

 

ご飯も用意してくれていて、洗い物と洗濯も終わっている。

だもんで、いつも家事に使っているお風呂を溜めている時間で満月さんの小説をざっと読んだ。薬物戦争の記事もざっくり。

 

時間があったら本を読みたい人格。

現在知るべきとされている情報には全く興味が沸かないし、探究心とも違う。

 

 

さておき。

 

満月さんの小説。ホクロと強迫観念の話。

夜行バスに揺られながら書いたのがこの作品だっけ。面白い。起承転結で何かが起こらないと困る人にとってはあんまり読めない可能性はあるけれど。

 

感想文を書こうと思うのだが、原作が普通の人に手に入らない観賞文章ってどうなのだろう。これで興味を持った人が居たとして、原文データを提供することが可能か、無償だから嫌なのではなくおそらく恥ずかしがって無理だと思われる。

 

ただ、僕がかつて書いたことがある劇評も、宣伝では無い。

幕が下りた後に公開されていたし、同じタイトルだとしても次に公開された時はアレンジなり進化をしているから、参考にできるような文章にはなり得ないという。そういうコンセプトだったから応募できたというのはある。

 

 

 

だったら、ここで書いても良いのか。

ネタバレという概念も作品に含意されていないし。

 

パート分解とかしてみると、何か精神を病んで入院している女性から見える景色から物語が始まる。情景描写がきちんとトレースできる。エゴが強いとありとあらゆることを描写したり装飾したりして、読んでいると馴れるまで小説世界の風景があんまり見えないのだが、一瞬で情景に馴染める感じ。

 

過去回想パートがメイン。大学に入学した時に変な神学サークルに誘われるというパートがあるのだが、その前に、「5分咲きの桜が入学式を忘れているように見えた」みたいなフレーズが良き。

 

神様パートは、全体を通すと割と何故入って来たのかという違和感がある人も居るかもしれないが、寧ろここが本質なような感じ。恋人のホクロによって存在を認証するみたいな肌感とか、笑顔を否定された女性の世界観もやんわりそんな感じがある。

 

 

神学的というより、詩的な味わい。

 

詩がどういう存在なのかは定かではないけども、言葉で直喩せずに暗示するという意味で捉えたら、裸で抱き合ったあとに、「恋人なら当然することをした」という描写が上品な味わい。

 

僕なら裸で抱き合ったあとでも寝落ちする。なんなら実際やって次の日に大惨事になったことがある。私のこと大事ではないのかーって。

 

強迫観念パートは分かり切っているから若干流し読む。

まだやっている時がある。ちゃんと鍵を閉めたのかとか、エアコンを消したのかとか。

 

これって長距離移動があると困ることが多いんだよな。

エアコンは電気代で済むが、アイロンをつけっぱなしで火事になったらどうしようとか、悲観的な可能性がいっぱい出て来て心が休まらない。

 

 

感想文はこの辺で。

 

 

やれやれ。

 

店長に僕の接客は「おしい、もっと元気に接した方が良い」と指摘されて「元気」について思索した。

 

満月さんは僕が文章を書いたあとの状態を良く「元気がない」と評価する。

これって別に元気がないのではなく、文章脳が活性化した後にすぐ小躍り状態に転換できないからのだが、この2つってまぁまぁ似ているのではという発想。

 

普通に考えてというか、色々考えていると楽観より悲観に依るのは当たり前。自分が安心できないというか、存続する為には悲観的な可能性を先取りしなきゃとなる。そういう未来のことも考えることができたから種が存続できた訳で、遺伝的な能力でもある。

 

あと、楽観的な世界って、別に言葉で考える必要がないし、おそらく表現しようとしても文章で長々描写するようなものでもない。某メンタリストさんの動画で、会話で盛り上がるには、有意義な体験ではなく、どうでも良い共有できるような事象についてらしいというのもちょっと近い。

 

共有する為に書く人というのはきっとずっと元気だし、元気でないと書けないのだと思われる。長々と共有されるようなことしか書けないというのは結構縛りだと思うのだが、当人が良いなら良いと思う。

 

 

で、僕はというと、ほんとに元気な時は書けない。日常に自分を使い切ったときとか。元気を抑えて思考に浸るのは探究心と呼ばれるものに近いけど、こうやってカタカタ文章を書いているのを見ても、元気とは見られないと思われる。読んだ文章に元気があるかもしれないというだけ。

 

どういう話になるのかというと、「元気」って共有できる「馬鹿さ」みたいなものなのだろうなということ。考えとか探究って突き詰めていけば暗がりに焦点を当てるものだから、どうあっても元気では在られない。

 

もちろんこんなのはバランスの問題であって、潜っては帰ってきて元気であれば良い。

ただ、端からその状況を見る人にはより元気が必要な可能性はある。ここになってより何も考えないという人格は割と高潔になってくる。

 

考えることと考えないことを両立できるのが最上。

でも、そうやってチャンネルと時差なく切り替えることは難しい。

 

だとすれば、仕事の時にはもっと馬鹿になって元気で居たほうが良いような気がする。

仕事のシステムの理不尽とか、顧客の浅慮とかを捉えだすと悲観的なところに沈むから、自己の考えはともかくとして、馬鹿になって元気で過ごして、何か持ち帰ってくれば良いのかなと。

 

これって王様の耳はロバの耳みたいにSNSを使うこととは違う。

悲観に浸っている人は、馬鹿ではなく世界について考え過ぎている人。ここが世界に対する攻撃に転化すると読めないのだが、単に自責にしている人は問題ない。

 

 

色々転々したっぽいが、結局は考え事をしながら元気に見えることはできないのだろうなという結論。

 

もしかしたら創作とか創造には元気と共存できる領域があるのかもしれないが、生んでる最中ではなく後のことしか聞けないだろうし、同じことかもしれない。

 

 

見る人によっては元気なのか元気でなさそうなのか随分と変わる僕。

お母様に元気が無いと言われるのは声が小さいからなのだが、声が小さい=人に自分を表現できないことが元気でないとは限らないと思われる。

 

特に気にしていない。

 

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。