だいごみ

 

 

昨日のタイトルの徒然草は、土曜日に先生が徒然草兼好法師さんが桜は満開の時を眺めるのではなく、散り行く様が美しいと書いていると言っていたことをふと思い出したからだと思われる。書き終わってからてきとーにタイトルを付けるから、本文と一致していないことも多いはず。

 

徒然草はこの日記群そのものでもあるからどの日記に付けても問題がないタイトルではある。

 

 

さておき。

 

ちょっと嫌な夢を見た。中学校時代、部活がほんと嫌で毎日雨降れと思っていた。野球部って陽キャのノリだから、いじりがとても苛烈。勉強ができるというところと、自分で言うのもアレだが、ペルソナのおかげでそこまででもなかったが、中学校の同性の同級生で再会したいと思う人が居ない。異性なら1人か2人。ヒエラルキーから独立した2人の仲良しさんで、雑談が楽しかった。恋愛感情を持つことももたれることもなかったし。1人は某宗教の家だったから、1Q84的でもある。

 

脱線したが、その時の象徴である最終的にトヨタに就職したという噂の同級生が出てくる。多崎つくる的。追い回される夢。起き抜けに当時の嫌な気分が漂っている。別にそれで今の仕事に行きたくないとはならないし、この気分自体が悪いとも感じなかった。随分と強くというか楽になっているものだ。

 

この辺りで、脈絡不明だが人の一生ってそんなに永くはないよなと思った。たぶんあと30年40年生きたとしても、それは単なる社会時間であって、年輪として刻まれていく現象はそれほど多くなかろうなって。どうあっても人は社会時間と並行して自分時間を生きていくしかない。

 

一頻り思索を終えて出勤。厳密に言えば思索ではなく感じであって後付けで言葉を宛てているだけだが、最終的にはこれが思索ということになるのか。

 

ちょうど出勤ラッシュだから歩きルートでも人が多い。桜のピンクが散りつつ、レンゲのピンクが拡がりつつ。循環しているなぁ。循環と言えば、家から出てすぐの一軒家は入口の問だけ残して更地になった。通り抜けたら異世界に訪問できそうなくらいの違和感がある光景。なんでそこだけ残しているのだろう。歩いているとお引越しの業者さんのトラックが居住を循環している。僕の引っ越しは段ボール10箱に収まるではないかと思っている。8割が本だから重い。ただ容量はコンパクト。

 

 

お仕事。

めちゃくちゃ忙しい。流石年度始まりなんて量ではなく、去年比の1,5倍くらいはあったのではなかろうか。個人的には普段の平日8時間の仕事量が、午前中4時間の時点で終わっているくらい。声が枯れるわ。ここは割とどうでも良い。忙しかったから疲れるというのもつまらない。先生が腰を壊していたみたいで痛々しかった。僕の腰も心なしか痛くなる。これが共感(2回目)。この共鳴って敏感形質の特徴なのだろうか。そこまで他律的な叙述は読んだことがないが。

 

お昼。良い天気過ぎる。日向だともう日光が痛いくらいに熱い。土曜日にお花見した公園は今日もお花見をしている人が多い。この公園、大改装していて、そろそろ全貌が見えてきた。遊具はリニューアルされているし、何やらビザ&パスタの店とか、カフェもオープンするぽい。前は長閑な大きめの公園だったのに、随分と商業ちっくになる模様。あんまりお洒落過ぎるのは興味がないから、生活圏が移動するのはちょうど良かったのかも。空中庭園と呼んでいる素朴に職員さんが手入れしている植物ゾーンが好きだった。

 

実際ほんとうにそうなのかは知らないが、読んでいる記事の中に、美のデザインが均一化しているという話があった。色んな国の人の自撮りとか、インテリアの配置とかの感じがどこもかしこも一致しているという研究結果があるのだとか。日本はどうなのだろう。加工して均一的な美を晒し合うという意味では近いのか。ちなみに僕のアレは無加工の酔っぱらいの表現的顔ではありません。

 

この公園も完成イメージを想像するとお洒落だなと思ったが、どこかで見たような気がするなというのもたしか。安心できる既存の美的空間というところで言えば需要には合っているだろうし、なるほど、だからスターバックスが繁盛するのかとなる。

 

量産型の美は根っこに訴えかけてくるものがあるのはどうしようもない。

 

 

最終的な本日の仕事の結果は、通常の2倍まではいかなかった。1つ引っかかると時間が延びてしまう。無念、でもない。

 

ご飯のことは省略。

美味い。

 

 

やれやれ。

 

僕は言葉の扱いが上手くなっているのだろうかとふと想う。言葉はどんどん意味不明になっていく。手探りというか連動しないように扱うのが肝要なのだろうなと思いつつ、そうでもなさそうな。集合的無意識が前提にないと、言葉が伝達するという事象がありえない。そうすると、集合的無意識に囚われながら使うしかにことになるが、言葉は容易くその範疇を越えうる。

 

満月さんが消費税の話をTwitterで読んでいて盛り上がっていた。いや、今日は消費税についての考察の日ではないな、ひっこめて。

 

人という存在はだいたいが仮象として埃を被っているのではという仮説が発祥している。集合的無意識としての社会規範って、そこに従っている限り個人の固有性は見えてこない。解像度を高めれば、同じ社会的無意識を共有している人でも個人にはなるが、この個人って、あるがままの固有さではない。

 

BL小説なのかな、の感想文を読んだ。この人の感想文、文学批評的だから美味しい。読んだ感じだと、同性愛が日本社会的に認められていないというタブーをどう描くかを問題としていそうだから、文学解釈として何派だっけ、自然派か? みたいな。

 

僕はリアルBLをしたこともあるからあんまりここに対してタブー感はないことを前提として、責任に対する描写への感動が良く分からない。指輪をお互い買ってプレゼントするが、ノンケの人は、職場には付けられないという認められなさを自覚しているのが良いのだということ。

 

いや、僕が社会的に認めれることとか、責任が生じることに対してなんとも感じないところがここに共感を生じないという欠陥なだけで、社会に当たり前に認められることが幸せで、そうではないことが産まれた世界の不幸だという感覚は分からなくもない。

 

別にこの人の考え方がどうとういうことではない。引っ張り出されるのは勘弁して欲しいということだったら、一言書いてくれればしなくなります。

 

ただ、この社会的に正しいか誤っているかの切り分けってかなりざっくりし過ぎていて、まともとされる性向を持っていたとしても、バリエーションは解像度によって随分違う。前の世代の人は孫の顔を見たいっていうけど、だいたいの正常な個体はそれに準えるとしても例外はいくらでもある。機能的に子を成しにくい人と、そもそも子をなせない同性とパートナーになることの社会的な意味合いは違っていても、結論的にはそんなに変わらない。ついでに、いまや子を成さないこと決めつつ異性間でパートナー関係を結ぶこともできる。

 

なんだろうな。

自分が環境から獲得した当たり前に合っているかどうかで世界の正誤を切り分ける世界観は人生劇場として勿体ない感じ。満月さんが僕の世界線から離脱しない限り、30年後でも腕枕して寝ているという劇場観。

 

もうちょっと書きたい感じはあるが、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。