まったり
22:33から。
そして、22:52までぼーっとしている。
本日は仕事が個人的にひと段落というか、やっとこさひと通りの流れが学習できて、ちょっと安心というか、まったり。
ジェットコースターに乗らされている速度感から、高速道路を自分で運転しているくらいの感覚には落ち着いた。最終的には散歩みたいな速度感にできれば。速度と視界は比例している。
店長から、そろそろ新人項目も進めないと、いつまで経っても新人のままだよと言われる。これに対しては疑義。とりあえずヒントをくれ。1例で良いから実例を呈示して欲しいと。何回も付きっきりでやってくれみたいな甘えはないのだが、どういう方向性なのかということくらいは示していただきたいところ。
クレームでもないのだが、他に聞ける人も居ないからなかなか難しい。
それをやっている姿でも見えれば見て学習できるのだが、この項目に対しては特に見えないし。
クレームと言えばという話もあるのだが、あんまり書けないので省略。
前職でクレームになった時は、上司が対応してくれた。でもこれって、権限の配分が分からないから相手を不安にさせたということがほぼ全て。他の人は言い方とか態度みたいなことが原因になってそうだが、この辺りは特になさそう。自信を持っているのではなく、たぶん大丈夫だろうなという感じなだけ。ここから現職で色々実体験していくだろうから、そこは会社の規定に外れない程度に書くと思われる。
語句では特定できなくても、読んでいれば文脈的に普通に僕の仕事場も特定できそうだが、情報は誰もが読んだら分かるように特定されていないと、コンプライアンス部署に特定されない。そういう検索方法はしていないだろうし、AIも解釈までは認識できないはず。固有名詞って誰でも書ける分かり易く使いやすい道具だから、あえて僕はあまり使いたくない。もちろん、説明という局面では使い放題するけれども。
そろそろ眠くなってきた。
まったりし過ぎた模様。
やれやれ。
人の言葉が最も出てくるバイオリズムって、論文を書こうとしているとかプレゼンするとか緊張の山ではなくて、落ち着いた谷だと思った。個人的なところで言えば、緊張と安心の間にある安全のときによく言葉が出てくる。緊張でも安心でも出てくる言葉はあんまり解釈に至らない。
この感じは、文学理論だったか、お風呂読書の中にも出てきていて面白い。
言葉って、流通しているから通じるマイナーな通貨みたいな道具であって、流通していない、できない領域になると、途端に新規の使い方をしないといけないという裏切りがある。
この裏切られた感じは、言葉がそういう物であるという道具性の意識が薄かっただけなのだが、これが人格と癒着していると言葉離れが大変になる。
これとは別に、言語として認識できるものが世界の全てという現実の枠があるから難しいのだが、世界ってそれほど一枚岩ではないという世界観を受け入れられるのか、拒絶するのかは、どういった振り分けなのだろうか。少なくとも知能指数ではなかろうし。
哲学が懐疑的あるという表現は適切だけど、懐疑って疑いという否定的なニュアンスがあるからやや風評被害みたいなところがありそう。疑うことは別に否定しているのではなく、それがほんまかと気になっているだけであって、哲学する人は特に自分の世界観に寄せるように無理矢理解釈している訳でもなさそう。
満月さんが寝床でぐーぐー待っているのでここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。