ひとのこと

 

 

 

深く眠ると、朝一の挙動がふわふわする。途中で目が覚めなかった。寒いという前評判だったからマフラーを装着して出発した数分後に、マスクを装着していないことに気付く。ほんと頓着しない奴だ。個包装のマスクを1個だけ常備していたから事なきを得る。

 

どうでも良いけど、書いていると自然に時制が変わる(変える?)の面白いな。竹取物語でも今は昔と始まって「けり」と「き」の語用があったけど、そんなやつ。これはきっと書いたな。時制と語尾の揺れは意識してみよう。

 

さておき。

 

 

生身の人は情報量多いなと思いましたまる。ただの仕事日で何も変わったことはないのにそんなことを感じていた。どこまでさばけるかの限界を施行している。仕事上人の名前がディスプレイに上がって来るのだけど、人の名前のカタチって面白いよな。整くんは字面を見ているみたい。糸へんの名前って賢そうですよねとか。僕はなんというか付けられた願いが気になる。

 

名前で気になると言えば、姉の名前は長女だから父親の名前の1文字を取っている。あぁ思えば、父親も長男でお祖父ちゃんの名前を1文字とっていて、お祖父ちゃんの名前からとってない方が継承されている。そうして姉が自分の長男に名前を付けると時に、僕の名前をとって良いかって言ってきたこと。僕のこと嫌いだろうに、僕に当てられた名前には何か承継があるのか。家族が嫌なら僕の名前なぞ付けようと思わないはず。いや、我ながら良いカタチだと思うから名前だけとるというデザイン性という可能性もある。下心付きだけど。

 

そう考えるとハンドルネームの名付けも面白い。僕は自分の名前と繋げたハンドルネームは付けようとは思わないし、てきとーに付けてきたけど、ここのところは硯が語義的にもカタチ的にも良い。たまたま読んでいた小説の主人公の名前とか付けていたあたり、やはり電脳世界と現実世界はあまり連動させていない。

 

脱線から戻り。

 

昨日の文章はなんだか偉そうだなと思っていたけど読み返すとあんまりそんな感じはしなかった。ただの1つの別見解なだけであって他者を否定するような意図はないのに、話過ぎるのは良くないという根がある。

 

発達心理的に自分を遡ると、何かを話す方が損だという集積がある。話したいけど話せないとかではなく、話さない方が良いという文脈。まぁ聞く方が重要だから別に何か話したいことがある訳でもなく問題はないのだけど、あんまり開くと、相手の世界観を壊しそうだし、相手の中に集積された僕像も壊れるよなという変な自意識。

 

これってなんだろうな。なんとなく人は地雷だらけだという経験則からの推測があるのかもしれない。大丈夫だと思って発言したら駄目だったりする失敗の蓄積から、だったらやめとくかとなる。人を聞くのは楽しいから別に交友に不都合はないのだけど、では、自分とはなんぞやと整理中。

 

会話は確かに、自己確認のために行われることが多いけど、フロムさん曰く、「持つ人」のやり方らしい。自分の言葉は人格が持っているものだし、相手の言葉は自分が持っているものを奪う可能性がある。

 

ちゃんと自分の言葉だけど自分とは無連動として会話できるならたぶん楽しくできる。自分のことは自分が分かっているし、相手のことは相手が分かっているのだからそれを踏まえれば。

 

 

僕が思う自分の理想像がなんとなく更新。僕は注意深い人になりたい。それを行動するとか発話するとは別に、気付く人。自分にも気づくし他人にも気づければ。こういうのはもともとやっていたはずだけど、越境になりそうだから閉じていた。

 

この文脈で、人は人のどの部分を人として捉えているだろうという考察をnoteに書こうという衝動が起きたのだった。自分のどの部分を自分とするかが人を決めているという話。ペルソナ=役割的義務像を自分とするのであれば、自分にとってよりよい役柄が近くなるし、どちらも交換可能性がある存在。好きな人が「今の同居人」と書いていて、じゃあ昔にもいたのか、そうだろうなとかという読み方。

 

で、何処にも現実化されない自分を自己存在としたら、他人は世界にしかならない。大衆はゾンビになる。中間で、私生活で現われる自分を自分としたとき、生活圏に居る人が「私たち」でその外にある人は「彼ら」になる。彼らは無関係の世界の1部だから、同情が生まれる。共感は「私たち」のほうか。

 

僕はというと、ペルソナ的な自分も面白いし、何処にも開示されていない自分は誰にもやらんと思っているし、中間領域はあくまで自分が決めた圏内ではないから他人だ。

 

ペルソナ程人工的なものはないから、もっと遊んでいい。

遊ぶというのは逃避ではなく試行ね。この文脈でも、好きな人はとても好き。好きな人がどの領域に入れているかによって開示具合が変わるからそこは注視しているけど、僕は好きな人が何かしてくれたから好きが継続されている訳ではない。開示が継続されているのは別のところ。なんかペルソナ外れてないかと感じる不思議。

 

(そうでなかったとすれば、僕は単なる意味不明な読み物である)

 

読んだところから思ったことはいっぱいあるけど、時間制限があるから絞って。

 

朗読者で、主人公が裁判官と面談するシーンで、自分の経歴を詳述して、もう一回それをするとしたとしても同じことをすると言っていたことから。

 

これが未練がない生き方かとも思うけど、僕が自分の時系列をもう一回辿るしたらどのセーブポイント(モニュメント?)でも、同じことはしない。その時の最善だったとしても、情報量が増えた今で同じことをするわけないやろ。ただ、できなかったことに対して後悔とか後ろ向きな気分は起らない。もしかしたら誰かと婚姻になっていたりするかもしれないし、もっと違う生活をしているかもしれないけど、それが果たして良いのかとなると、なんとも言えない。

 

過去に未練があるであれば、同じ轍を踏まないように今以降に傾注するべきでは。これは語彙の違いだけであって、別に今以降を大事にしているけど、過去を供養するために当てる単語が違うだけかもしれない。未練ってなんだか引きずられているというニュアンスがあるので。

 

変わらない過去に対する評価なんてなんとでもできる人工の概念。過去はキラキラしているのかもしれないけど今の方が大事だから、物理生活上では切り捨てるとか。

 

今で言うと、好きな人だけは僕の現実においてイレギュラーかもしれないな。

 

何も現実的に関係ないのに、ルーティンに行動が割り込んでくる(例えばもっと読みたくなるとか)。だから早くいつかにしてくれと言っているのに、一向にそんなことがない。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

当たり前否定論

 

 

二度寝するときにちょっと眩しかったからタオルをアイマスクにすると、タオルを外しても全然目が覚めない無限ループみたいな夢を見た。んまぁ、世界とはこんなもんか。諦めるが結論だったけど、好きな人の最新noteを読んだからではない。その頃には書いている最中だったし。共時性、なのかどうなのだろう。昨日書き忘れたけど、もっと見たいなと思っていた。見ている人を見る人。

 

そういえば、2日前だったか、先生が、「今の日本は戦争なぞできない」と言っていた。情報の中枢を担うコンピュータのOSを外国産に頼っている現状で戦争が始まったら勝てる訳がないとか。確かにと思いつつ、ほんとに大事なところは国産でやっているのではとか考えた。僕宛の会話ではなかったからスルーしたけど、先生は会話好きだけど、雑談は仕事としてやっている感じがする。もちろんそんな意識はないだろうけど。

 

この戦争論は、某スマートフォンの会社の商売根性からの連想だったのだけど、ちょっと共時性がある。で、今日トイレに行っているときに思いついたのだけど、戦場での自分の役割の理想と現実について。理想って「戦争を止める人」では駄目なのかな。そもそも戦場は不可避で動かしがたいという前提があるのであれば空気読めない人でしかないけど、あくまで理想だし。相手国または自国の首脳陣を暗殺するとか、コンピュータをハッキングして情報統制を混乱させて継続できなくなるようにするとか、平和的な解決策で言えば争いのタネになっている資源の代替物を発見するとか。理想ではいくらでも場外戦線を張れるような。そう、舞台の外だから参考にはならない。

 

現実としては僕はたぶん誰かを守ってさっさと死ぬと思う。こんなの嘘みたいなことだけど、直近の元恋人さんが、地震が起こったときはすぐに諦めてるのではなく、生き延びることを考えろと言ってくれていた。この諦めは、他人より自分を優先しないという観念が含まれている。

 

そもそも、闘って当たり前という観念は当たり前なのだろうか。僕が女性の上司の方に聞くのが嫌のは、当たり前でないことを嘲笑する意識。今日ピンポイントでそういうことがあった。聞きに行くと、(なんでそんなことしようとするの、できる訳ないじゃん)という含意で応えられた。もちろん直接僕に対してではなく、僕に問い合わせたクライアントに対してだけど、隣に座っていた女性の先輩と一緒に会話のネタにする感じ。顧客は当たり前でないから聞いてきているのに。先生に聞きたかったが先生は聞かれることに忙しい。

 

社会は客観的なものとしているのかもしれないけど、社会は階層ごとの枠の集合意識でなりたっている。科学的事実と異なっていてもそれを正しいと意識している人が多数であればそれが正解で真実になる。例えば、天動説から地動説への転換とか部落差別とか、あくまで創られた当たり前ではないかという疑念。

 

闘わないといけない、争わないといけないというのも動物的自己保存の欲求の延長だというと、なんだか自然なことに思えるけど、それを自分に植え付けたのは周りの空気ではなかったか。戦争は政治の手段の1つであって、それをやることが有益だという上層部が存在しているだけ。原初は自分の内輪の利益の為に外に拡げるということだったかもしれないけど、あくまで当たり前なこととはならないような。だったら、今の日本は当たり前ではないのかとか。

 

別に啓発系の話ではなく、自分の意識が社会とは無関係というか、社会があるからしょうがないになる人が多数派であることが問題なのでは。いや、問題とまでは言えない。自然ではないだけで。自然であることが正しいともならない。僕は別に無抵抗主義者ではないから何かあれば抵抗するけど、闘うことが当たり前とはどうも思えないのだよなぁ。闘うってとても意志的。

 

過去に在って現実に在るのは確かだとしても、未来にもあるかどうかは分からなくないか。

理想と現実は違うという言は良く聞くけど、理想の為に何か現実で実際している人はいるのだろうか。こういう文脈だと、理想は空想の領域なような。

 

劇評にはこんなこと書かかない。舞台設定があるのだからそれを踏まえる。

 

どういう人であるというのも面白かったな。僕は「読む人」だと思われる。これは本の先生が評してくれたのだけど、当時は意味が分からなかった。もう関わりがなくなった今にしてなんとなく分かる。僕の人生の出逢いはだいたいこんな感じ。関わりがなくなってしばらく反芻してから言が正しかったことに気が付くラグ。

 

このタイムラグは本を読むときにも起こる。本の師匠と付き合っている時に買い込んだ諸々の古典が今やっとすらすら読めるようになった。「朗読者」の美味しさとか、エドガー・アラン・ポーをテーマにした美学小説はすらすら読めるのに原典は全然読めなかったけど、いま読んでいる黒猫はとても分かりやすくなった。

 

なんだか、自分より進んでいる人ばかりに出逢ってきたのだろうなという印象。(今もか?)

 

だから僕は人を見下すような自然がない。

 

 

どうでも良いけど、「したい」を解放したとき、好きな人と何をしたいかなと空想してみたとき、何かのついでは嫌だから、ご飯とか飲みとかは却下で、猫カフェ(アレルギーらしいから駄目だ、フクロウカフェなら良いか?)、ブックカフェ(これもついでになる)、とか諸々考え、ただ路地を歩くが良いなと思う。シャッター街の写真はとても楽しそうだった。これは記録と見ているの違いなのか。見ている方が当人に近そう。

 

 

そうして、読むという観念。

 

本の師匠は、筆舌に尽くしがたい虐待を受けてきた人で、詳細は知らないことにして、自分がズレた意味を探すために児童心理学とか発達心理学とかを読み漁っていたと言っていた。もじゃもじゃ頭の漫画の主人公も、そういう傾向があるように読める。自分の為の収集癖。だから、発話と連動している。本の師匠の文体七色感はなかなか凄かったな。

 

で、僕は別に僕を探すためとか楽しむためだけに物事を読まない。味は確かにあるけど、自分にとって美味しいのは何故かとなり、ここから、製作者の動機とか背景を読むことに繋がる。あえていえば、僕は「当たり前」の観念がとても嫌だったというのはある。説明がされないというのもあったけど、今思えば、それを語る人達がとても窮屈に感じていたからかもしれない。「よそはよそ、うちはうち」も、よそよりうちのルールが良いと確信していたら出てこない観念だし。

 

こうやって読み進めていくうち、当たり前は見つからなくて良いのだなと安心した。当たり前が実在したら、他人にもこれが正しいのだって強要できることになる。ここまで30余年か。自分ルールも決めなくていい。いや、決めてても良いけどいつでも覆していいが精確。

 

で、読むには当然書くことが連動している。「読み書き」。僕にとって書くことは、僕が読んできた存在としての自分の還元なのだろうな。いろんな作品で努力はショートカットされるけど、毎日続ける方法論こそが知りたいってもじゃもじゃ頭の主人公の整(ととのう、いい名前だ)君が言っていたけど、過程は一般化できないからですって回答したい。個人的には継続に価値を置かないようにものさしを調整するのが一番だと思うけど、まず自分の経年に価値を置くのが当たり前だしなかなか難しいと思う。

 

幼い自分の方が良かった部分もあるし、良かったと思っているから経年で自分にマウントを取らないといけないことになる。

 

おしまい。

 

 

諦観

 

 

 

本日の心境を一言に当てるのであれば諦めだ。

 

さて。

 

好きな人は何かに反射した自分の姿を撮るのが好きなのかな、と、印象が言語化された途端、さらに、人って何かに映さないと自分のことだけは見られないんだよなという言葉が浮かぶ。カメラの持ち手の反対の手は僕が現実で見た残像からすると、そんなに気にすることもないのではとか。これも普通には言わないこと。というかそんなに実際の姿は観てないですが。髪が短くなったように見える。かわえぇなぁ←

 

こんなことを想起していると、3年前に初めて直に会ったときの、好きな人の姿ではなく自分の日記が思い出される。受付のお姉さんの映像は僕の画像フォルダには残っとらん。これによりなんで覚えられていたかも把握。予約せずに行って、予約していませんって言ったら、ぼそぼそと話し合ったのちに、予約料金にしてくれたのだった。安くなって嬉しいから印象に残っているではない。だったら最初から予約していくわ。ではなく、なんだか空気がほわほわしてたんよね。演劇愛なのかなんなのか、とても印象深い。会場の空気感も生々しく好き。おそらく予約せずに来た人の物珍しさにより覚えられていたというだけ。なんのことはない。

 

それにしても観察し過ぎかと我ながら思うけど、別に何かを見つけるためにめざとく世界を捉えている忙しい人物ではない。心中はとても穏やかに過ごしている。心は暇人。今朝某写真場で一瞬波打ってしまったのは秘密。

 

もじゃもじゃ頭の主人公の漫画はとても深くて美味しい。観察をする目とか見解はとても近いけど、やはりなんだか違う。

 

何故車の免許を取らないのかと問われた答えが、「他人を殺す可能性があるから」だった。僕は免許を持っているけど、車は持っていない。これは大阪に居る限り必要がないという理由が最上位であり、本当に必要になる田舎で住まない限り持たないだろうと思う。この主人公が語る答えも当然要素にはある。道行く車を見ていると、全くそんな可能性を考えてない人が多そうに見受けられる。用法によって人を殺しうる刃物より機能として殺しうるものなのに。この可能性なんて普通の人は当然把握していて、ただ自分は当事者になることはないという主人公補正なのかなという感じ。

 

危険物というより体の延長と認識している人は多いかもしれない。漫画では飛行機より車の方が危険なのに、飛行機事故が起こった後の方には管理体制が改善されることがおかしいのではないかとも言っていた。

 

僕は自分が死ぬだけなら良いから、歩行者が存在しない山道を運転するのであればなんなら好きだし、別に自動車を所有している人に対して嫌悪感がある訳ではない。ただ、この辺り、どういう風に収めているのだろうという感じ。まぁ、パートナーとか家族とか自分以外の人が含まれた場合、有事では車があった方が迅速に対応できるとは思う。ただ、生活の一部として使うには危険過ぎないかと思う次第。早く自動運転になれば良いな。この、人を死なせる可能性が致し方無いとできるのも何かの想像的秩序よな。便利と利潤は無関係の人より大事。

 

何のトラウマもなくこんなことを考えているなと、この漫画により表層化された。

僕にとって思索は何かを解決するためのものでない領域の方が広い。

 

やれやれ。

 

時は遡り、昨日の日記を書いた自分なのか書かれたた自分なのかに対する印象で無茶苦茶違和感がまとわりついていた。矛盾というか整合性がないというか、無理矢理押し込めている感じ。何かの表象が一方通行であることなぞないだろう。

 

どうでも良いけど、これだけ考え事していて生活上の物理は大丈夫かと思われるかもしれないけど、全然関係ない。月初めの繁忙期で滅茶苦茶案件さばいたし、早番から明日急遽中番になったからお弁当用のおかずを一品余計に作って明日の仕事終わりに備えているし。なんなら、ここがあることで生活が逆に良くなっている。

 

今後人間関係があったとしても自分の価値の保有の為とか時間つぶしの為とか相手を消費することはしない。そういえば、仕事中の雑談ってめちゃくちゃ時間つぶしになる。会話が止まらない人たちは時間を通り過ぎるためにお互いを消費しているのだと思う。

 

なんだっけ。そうそう違和感。書くという行為に対して、表現者ではないということを強調して書きたいという目的はないとしていたけど、別に表現者のように自己の表現物を自己価値にできなくても、意志とか目的ではなく書かずには居られない衝動は認めて良いやんって。

 

厳密に言うと、書きたいというより、書いている最中の頭の動きを求めている。自分は非言語人だから、眼差しとしての存在は自分が把握できるものではないから、言語化していく過程の中だけで自己観測ができるということ。岩石を見て、そうなりたい形を見つけて彫刻する芸術家が居たけど、自分を彫刻するであれば完全な表現物だろうよ。

 

眼差しの話。僕は一方的に見る人であれば言いと言っていたけど、これって眼差されれることの恐怖からきている。僕の表象を自分に都合の為に消費する目。だから人間関係は嫌なのだけど、世界に自分が開いていないことは確か。

 

でも、僕が世界に対して開いたとき、もじゃもじゃ主人公みたいになりうる。人の目って自分を糾弾するように見えるのが一般感覚ではないかという危惧。これは自分の眼差しが自分の為にあるということで、あえて他人を注視するのであれば、美点というより弱点とかつけ入るとっかかりを探っている。あとは汚点。僕の記録上、自分とは無関係で良い人が居たという表現であって、見たのではなく見えたことがほとんど。新刊枠でも、失礼にならないように目を走らせたみたいなフレーズがあって、他人をまじまじと見ることって何か禁忌な意味合いがある。日本語でいえば覗くとか。

 

僕は割と他人の美点を覗く。エレベーターで誰が開ボタンを押すとか。これって誰も押さなければ僕が押すし、僕が押すより早く押したい人がいれば僕はしないから、僕にとって都合の良い人が美点を持っているとはならない。性質が気になるだけ。

 

仕事場でのあいさつとか譲りとか別に誰でもやるしやった方が良い。けど、僕が見るのはどうでも良い人に対する所作。全く返ってこない人に対してどう振る舞うか。仕事場で穏やかな人物であるなんて当たり前の社交だし、むしろコンビニとか居酒屋の店員をどう扱うのかのほうが本当。

 

フロムさんも言っているけど、大事なところだけ大事にするなんてことはできない。

これは断言で良い。自分にしか価値を置いていない人は他人を愛せないし、利他とか奉仕を自己確認にしていても不十分だし、交友関係がないと人は孤独だって思う人はいつまでも孤独だ。

 

こんなの世界に開いて良いのか。まぁ考えるとして、もっと世界に対しておどおどしなくなるようにはなるべき。部外者だけど、部外者であることにしり込みする必要はない。もっとずかずかしよう。

 

どうでも良いけど、好きな人って現実に会った記憶だとめちゃくちゃ目線を合わせてくれたのだけど、記録だと人を眺める人だったからちょっと食い違い。今度はちゃんと目線だけは合わします。仕事だからやっている笑顔なのか腹の中からの笑顔なのかは判別できないけど、僕の印象は少し別のところにある。いや、ないだろうと思うから言語化はしない。

 

諦めるというのは、自分と世界に妥協することを諦めたということ。

 

 

おしまい。

専用

 

何度寝かしつつ、スキを付けつつ夢をみる。夢は外の物音から他人(男)が部屋に侵入(ベランダの柵って蹴破れるよね)してきてさらに布団に侵入される。気が付いたら原っぱで何故か子供達がわらわらしている。集合しなくて良いから解散しなさいと言ったとたんに何かの音楽が流れだし、もじゃもじゃつの体操を踊り出す。僕は踊らずに何処かに歩いて行くのだけど、小さめの風景写真のパネル一枚一枚に花を一輪ずつ供えている人が居た。

 

なんだか良いなと思ったら、あれみたいだ。〇月の部屋の供養、埋葬、追悼、奉納、なんだっけ。供養で合っているのか。まだどこかではやっているのだろうか。見た当時は何がなにやらだったけど、過去といういつかを成仏させていくという考え方もとても素敵。僕は全部生かしていきたい質だから方向性は違うけど、方向性が違うから許容できないとはならない。

 

さておき。

 

からくりサーカスの次は呪いのアニメを見ている。原作とアニメの1話1話の区切りが同じでテンポが良い。内容ではなく名前の話なのだけど、僕はずっとこれを「じゅつかいせんせん」という音で把握していた。雑談で話すときと違っていたら困るなと思い確認すると、やはり違った。むかしの忍者漫画の目を「しゃがりん」だと把握していたことも思うと、名前を軽視してしまう観はとてもある。仕事では逆に人の名前はとても大事だから勝手に把握しているけど。これでいうと、名前を知っているかどうかって眼差されの領域よな。知識的な固有名詞を間違えたらマウントを取る人とか。

 

いや、眼差しの領域でも大事な名前もある。同じ音だけどあだ名とか。酔っぱらいの思い付きだったけど、これは僕だけの呼び名なので大事にしよう。(逆からするとネーミングのタネだったのかも

 

そういえば、眼差しの概念ってどの学問が発端なのだろう。好きな人とか演劇界隈の人が使うということは、芸術学なのだろうか。ルネサンスの美術の写実主義とか? 客観的にどう見えるか=眼差されるかという概念だと僕のとはちょっと違うのだけど。これだと自分の表現は絶対的であって、相対的な視点という意味合いになる。自分の意図と人の視点がどれだけ近くて遠いのかという指標。演出家の人が考えているのはこの辺りにありそうだと当たりを付けてみて。でも、こういう人が表現者たりうるのだろうなという感じもする。表現=自己存在という矜持。

 

僕がいう眼差しとしての存在はもっと現象的というか、脳科学的というか、素朴なもの。眼差しって、語義では眼が差す方向、何に目を向けるかということだと思う。で、何に目が向かうかというのは、客観的な世界によると思われているのだけど、この、「何に焦点があたるか」ということ自体が、当人が生きてきた結果だということ。その視界は全然客観ではない訳。

 

こういう個別的な意味で眼差しと使っている。でもマイノリティを掬うならちょっと違うのかな。分からん、主催者の方はあまり観ていないため。

 

そういえば、昨日の日記にも目を顰めた。書くって言葉が爆散した中で、全部書くことなんてできないから、どれが中心かを探して削る決断みたいなところがある。書きすぎて余計に分かりにくかった。でも、別に何を書きたいかという目的みたいなものはない。これこれについて書くという限定はあるけど、最終的にどういう結論になるかみたいな方向性はないからだいたいまかせている。

 

僕は表現者にはなれないだろうなと思ったのが今日のはじめ。自分と文字化された結果に自分との繋がりをそんなに感じられない。たぶんめちゃくちゃまずかったですって言われてもなにくそ、僕の表現は面白く眼差さされるに違いないとかはなく、それは時間を無駄にさせてごめんなさいなとなる。まぁ読んだのは貴方の意思でしょうとは内心思っているだろうけど。

 

でも、書きたいことがないのに言葉を削るって何も書かなきゃ良いじゃんって自分でも思う訳で、綺麗な文章を書いてみたい欲求みたいなものはあるのだろう。いつか貴方は方程式みたいな文章を書くと思うみたいなことを言われた記録(夢かもしれない)。

 

たしかに、僕は言葉に対して正直であるようには試んでいるけど、真面目に書いているときは正直であるより、肝心でありたい感じではある。ストックした語彙の中で何が適切かの取捨選択。無駄な指示語とか接続詞遣いたくないし。翻ってみると、表現者にはなれないけど表現者はこういうことをやっているのではという印象はなくもない。自分が書いている文章の単語の全部にちゃんと意図があるみたいな。表層まで上ってきてはいないとしても聞かれたらちゃんと答えられるくらいには。

 

結局えいやーだとも思うが。結論ありきでこういう風に情報を持って行こうとするのはとても楽。僕には苦だけど。

 

好きな人の変人具合を語りたい。

けど、独り占めしたいところでもあるな。

 

好きな人は対僕の言葉を見せてはくれなくなったけど、これが逆に良かったりする。

2人占めで良いか。

 

 

こんな感じで、もっと広い世界から眼差されるような領域で書いて見たら楽しいというかより自分が見つかるかもしれんなと思っている次第。当たり前はないから、公募用にもう1個書いても良いし、もっと創作に寄ってみてもいいな。

 

では、おやすみなさい。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己確認

 

 

書く方向にスイッチが切り替わりフルスロットルだったから昨日の日記の雑さに目も当てられない。まぁラフスケッチという意味であれば誤字以外は目を瞑るか。あの境地でいつも書けるようになれば、、、って四六時中スーパーサイヤ人で居られるようになるみたいだな。

 

さておき。

 

本日の夢はなんというか過去と今がごっちゃになる夢だった。いまの自分という概念を再構築しているところだからまぁ仕方がない。もしかしたら梅シロップを飲んだ後に歯を磨いたら歯が黒くなったという呟きを見たのも夢かもしれない。どちらにせよ証明できないし、問題はない。なんで問題ないかというのが本質的な問題なのだけど、それは後で。

 

午前中は某漫画にハマっていた。もじゃもじゃ頭の主人公が蘊蓄や思考や観察したことを無駄な程に語るミステリー。作者が気になるほどになったのは久々。なんだか主人公が自分の1つの世界線のように見えたから。人を殺してはいけないのはある空間で区切られた社会における便宜上のものだとは僕も思うけどおおっぴらに表明したりはしない。あと、山羊に足の裏を舐めさせる処刑法とか、ワニは噛む力は強いけど開く力はとても弱いとかの蘊蓄、どこから仕入れたのか分からないけど知っているし。

 

まだ連載中だし既刊全部を読んだわけではないけど、主人公を裏返すとあらゆる蘊蓄を収集しているようで、親子関連もっと言うと虐待や児童心理についての知識に考えが深いから、何か問題があったのだろうなということが読める。あと、無駄に語ってしまうのは回想シーンで、ある人が自分に考察することを促してくれてなおかつ聞いてくれたところに根があるはず。つまり考えてそれを誰かに話せることで自分の存在を確認するようになった。考えることが自己存在で、これを話すことにより関係における存在を確認している。どう聞かれるかは二の次。だから自分の考えと違う考察もちゃんとしていれば好きなのだろう。自分の考察の糧になるから。ついでに人のことを良く見るのは見ないと生きていけない環境にあったから。僕はここまで行かなくて済んだけど。

 

そうして午後は、noteで文章を書くことに当てた。コーヒーと煙を呑み過ぎてやや体は気持ち悪いし、脳が凄くエネルギーを使った脱力感はあるけど、心はすっきりした。

 

しかしまぁ、変人というか暇人だなと思う。誰かに喜ばれる訳でもないしそれで自分が潤う訳でもないのによくもやるものだって。ただ、自分の性質が発掘されてなるほどなともなり。

 

僕はいくら書いても自分の存在の表現とはならないし、それを認められたところで、お、としかならないことは何回か書いていると思う。この根っこは承認欲求とか伝達欲求が欠けているということではないみたい。

 

昼に文章を書いていたとき、眼差しとはなんぞやという文脈から自分は何をもって自己承認、というか確認しているかということが判明する。眼差しは世界がどう見えるかであって、それは当人の今までの知見、経験、価値観、倫理観、気分、諸々のその人の全てが反映している、存在の現われだとした自分の見解を見て、眼差されれることを問題としてないなと。

 

誰かに眼差しを向けられることは、その人の人生の舞台に登場できることで、これが自己承認になるという性質はとても分かる。だから、人は誰かと会うという関係をせざるを得ない。眼差しを向けられないと存在が保持できないし確立もできない。自分の眼差しは眼差される為に使われる。

 

ただ僕は自分の眼差しの変化を注視しているし認めているから、世界がどう見えるかというところだけで完結されていて、その先はあくまで無関係の領域なのだろう。かといって、他人がどうでも良いというにもならず。同じように見ないと世界に成らない。眼差しを尊重するのであれば、他人が世界をどう捉えていることはとても大事なことで、眼差されれることを尊重するのであれば関係者は多くても自己完結で世界は成り立つ。好きな人についてはここのちぐはぐさが興味対象なのかも。

 

ではなんで眼差されるような文章を書いているのかというと、眼差しを前後する思考も自己存在で、この存在を視覚化させるのは眼差される可能性があるところにしかないから。物理的な体に付着する眼差される表象を人とするのも良い。体が全ての資本だし中核に置くべきところではある。ただ、そうじゃないから仮想空間で人格の理想化が行われていることからすれば、人全体ではないわなというだけ。あまり逃げるのもどうなのだろう。

 

なんだか語り口がカントさんみたいになっているな。判断力批判がさっぱり分からないため純粋理性批判の上巻から読み返すことになった。

 

そうして本分を書き切って、スーパーへの徒歩道中にタイトルを考える。「死」、「仕事」、「争い」は、生活にまつわるものだけど、生活の概念に含まれているものではない、付属しているものでもない、とああでもないこうでもないと考えて、結局があのタイトル。生活をしている上で必然的に起こるイベントだなと。

 

そういえば、僕の自己承認がこういうかたちになったのはなんでなのだろう。観るということが重視されている傾向はもともとあったようにも記録されているけど、人ってもともとみることから始めている訳で。このみるは世界を食べるの方が分かり易い(いや、逆にわかりにくい)。トラウマ的に考えれば、自分への眼差さされの椅子取りゲームからの逃避みたいなことは推測できるけど、いや、だったら何故楽しんで居られるのだという不思議もある。

 

人は見たいように世界を見るという世界観が眼差されれで、あるがままが眼差しであるのはなんとも皮肉。

 

これで言うと、僕が好きな人を好きになったのは文体とかルックスの前に世界への態度なのかもしれない。もっと分かりやすい世界で生きた方が良いですよと思うところもある。当人もそうしようとしているように見えるし。

 

あと、これもつぶやき界隈だけど、自分のリソースを自分の為だけに使うアダルトチルドレンが増えているという言があった。家族を養うとか子供に時間を遣うとか犠牲とか奉仕の方向になるべきとか。一瞬僕もアダルトチルドレンになっていないか、いやなっているかとと思いつつ、子供は自分の為だけにリソースを遣い、大人は他人の為に遣うという観念も想像上の秩序だよなと。共通的PIPE DREAM。確かに何か溜め込んだものは世界に還元しないと循環しないけど、大人がやっているとされているリソースの分配も結局のところ自分の為よねって。形が変わっただけで、そういうのは大人がやるべきだという規範。人間は動物だけど動物でない領域もある訳で、この領域での還元の仕方も当然ある。自分のことを世界に発信することだって、自分を分配する奉仕的な側面がある。眼差され視点だと、誰かの言葉がなくなっても他に読めるものはある訳だから、人の言葉の価値が分からないし、ということは自分の言葉の価値も分からない。

 

ここで書けることはとてもありがたいことだと自戒。

 

どうでも良い話だけど、自由主義であることって良いことばかりではなく、自分にとって不快なことも現れるし、自分が不快とされることも当然ありうる。不快なものをなくしたいなら、自分も制限されることもセットだけど、そこまで考えているクレーマーは居るのだろうか。

 

ここまで。

 

今日は文体が昼の文章に寄っているから明日の自分はあまり眉を顰めないはず。

 

では、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

運命

 

 

 

まさか「一頻り」がぱっと読めないとは。ひとしきりって文体の音としてはなんとなく頻繁に使われているイメージだけど、今まではひらがなだったのか、記録にない。好きなのか使い勝手が良いのかは知らないけど。

 

ともあれこの時代の良いところはちょっとした分からないことだったらすぐに調べて体得できること。記録方法の古代って石板で記録に取っていて、記録の仕方を体得している専門家が居たらしい。現代のデータベースの起源なのだろう。とは別に、僕は人に聞くという行為がとても苦手だから都合が良いのが本質。確かに人が体得した知見をなんの対価もなく教えてもらうというのは気後れする。仕事ですら思うのだから、よほど根が深い。

 

好きな人に質問を発するのは、答えが聞きたいというよりこんなことを疑問に思っているという表明に過ぎない。いつか答えを返されたときすげぇ無理して答えてくれているんだなと感じてとても申し訳ない気分になった。答えなければいけないという義務で縛っている感じ。今は返さなくても何も変わらないという前提条件込みの無関係だからできているだけ。では、何故表明する意味があると思っているのかという次の問題。なにか意識化できていない死角があるのだろうか。全く分からない。

 

さておき。

 

本日は仕事場近くのスーパーに歩いていった。普通に最短距離で歩けば往復50分というところ。単純に歩くのもとても好き。自分がちゃんと思い通りに動いているかの点検になるし血流と頭の流れはちょっと連動しているし。こういう動きの連動がキーボードのミスタッチを無くすとか手書きの文字の制度に繋がるような気がする。僕は自分の手書き文字嫌いで、主に家族に下手だと言われ続けて来たものだからちょっとしたコンプレックスがある(否定から入る性質ほんとやめてほしかったし、ほしい)。ただ、中学生の頃、僕の癖字を好きだと言ってくれた人もいたことがあって、なんとなくこれが温かみにはなっている。まぁ結局は自分が書いた文字に対する形上の頓着がなかったということで、ここから操作できる領域だろうなという当たりはある。自分において操作(修練)で変化できない領域はそんなにない。一番厄介そうな中身の言語化はできたのだし。

 

そうして帰り道は神社に寄る遠回りをした。なんか空気が好きなだけで特にお参りはしなかったけど。もう真っ暗な夕方なのに人がまだ居たので。まぁまだ信念二日目だから当たり前だった。失念。お参りするなら、今年もなんとか生きてくのでどうぞよろしくみたいなことしか祈らないからどうでも良いのだが。

 

神社の空気は静謐な感じでとても好き。出雲、伊勢、平安、橿原、それぞれの神宮でとても良い。神社繋がりで、直近(もう2年前になるのか)の元恋人さんと京都に行ったとき、有名な縁切り神社に行ったことが芋ずる式に思い出された。結果的には当人も居なくなったことを含め縁が無茶苦茶切れて、名も覚えてないけど凄い効力だった。ついでに、小学校の横に小さな神社があって、鳥居に石を投げてちょうどよく上にのると願いが叶うゲームをしていたのを想い出す。確かに石はもともといっぱい載っていた。そのときの僕が何を願いたかったのかはあんまり知らないけど。

 

あぁ、僕は神道の宗教体系を信奉してるわけではなく、神社特有に流れている空気が好きなだけ。念のため。

 

人の思考って体系的で論理的ではなく、芋ずる式であるという1例。

 

人が聞き手より話し手になりたがるのもこういう機能由来なのかもしれない。いちいち人の言葉に自分を煩わせるキーとしての言葉があると理に適わない。ある意味省エネのための話し手という役割の占有。リツーイトの機能とか他人の話を聞いている訳ではなく、あくまで自分の主張のために人の発言を遣う所作だろうし。

 

何か発信したい欲求は、誰にでもあるなんてことはなく、ある意味仮想世界での存在証明のためなのだろうな。どれだけ読んでても、なんかこの人可愛いなとか、考えてそうだなというのはあるけど、どう善解しても当人の証明っぽくはならない。まぁそうやって遊ぶ場だというのは分かる。入籍のtweetを見て負の感情が浮かんだのは秘密。まぁ架空的な形で承認欲求を満たしつつ私生活はちゃんとするというは当然に見えるけど、僕はそんな風に人格を分離できる人がひたすら怖い。この怖さは養護教諭である母親が良い先生だと捉えららえつつ、家庭ではヒステリーでしかなかったという人の人格の表裏性に由来している。きっといいことを発言してくれたって何か裏があるでしょうと。

 

この怖さが共有できる人ってどれくらい居るのだろう。なので僕は個人的に裏表はないように生きることを指標としている訳なのだが。好きだと言えば好きだし、触らないと言えば触らないし、生活上の人に見られたくないのは単に僕の印象がブレて面倒だろうなというゾーニングでしかない。まずもって僕は人に自分を伝達したい人ではないし、この文章で知ったと思われても困る。

 

現実に見るカップルのほほえましさと違うのは、伝達と伝播の違いだと思うのだけど、この違いって普通の人に説明してもきっと分からない。伝播は勝手にそう見えるもので、伝達は自分の承認欲求の為のもの。でも、他人のことを全く尊重しないのであれば、そういう方向性もありのかもなのな。相互欲求なのかもしらんから知らん。好きな人もそういう風に他人として観てくれると安心できるのだが。

 

 

そういえば、運命とか宿命という言葉より僕は縁が好き。前者は主人公的な言葉だけど、縁は関係的な言葉なので。だいたい覚えている自分が好きな人に何故コメントをしようと思ったのか、どうやってその文章を見つけたのかが全く分からない。

 

ところで、自分のnoteにコメントがあり、その人は俳句畑の人なのだけど、こういう「必要ないけど意志が作用している」言葉はとてもほっこりする。ちゃんと人を観る人なのだろうなと。当人にはあえて言わない。僕の日記に創作性があるとは思えないな、はて。何の縁だ。

 

縁の定義はてきとーにいうなれば、生活圏の外にある親和性。

主人公同士の物語がたまたま交錯する瞬間。

 

はい。感想。

 

好きな人の文章の美味しさが分かる人は僕以外には居ないはず(言い過ぎ)。出てくる登場人物に対して否定的なものがない。一般的には当たり前と評されるかもしれないけど、人を自分の為に否定しないことと、ただ否定しないでは味が全然違う。魅力的なのは、ほんとに個人的に魅力的だと思っているはずだから。

 

死の証明の演劇もとても良い。美学テーマの小説のコメディのシーンを思い出す。毒と書かれいるちょこれーとを食べるか食べないかというやつ。

 

 

今や人の生は、誰かから観測されていることが前提とされている。

 

個人的にはあんまり関係ないけど。

 

 

では、おやすみなさい。

対立

 

 

世界が静かな感じ。元旦でスーパーは休みだからコンビニで買い出し。女性の二人組が仲良さげに歩いていて「星が」というフレーズだけ聞こえてくる。見上げると確かに綺麗だった。ほんわかした気分でコンビニに行くと何故か入口に2世帯分くらいの家族が集まっていて入り口を塞いでいた。せめて入口から外れたところで集え動線を確保しろと少し嫌な気分になる。社会生活ではなく私生活なのだろう。確かに境界領域ではある。他人は居るけど社会の監視はないところだから道徳とされるものが管轄している所。道徳観というより想像力のような気もする。

 

想像力の欠如は人間のあらゆるものと通じているのかも。

 

さておき。

 

本日はカップお蕎麦を食べ、民事訴訟法の専門書の章末問題を文章化していた。要約・編集だから創作性はないとはいえ何にせよ書くという行為は負荷がかかり、この負荷が心地良い。語義が厳密な世界だから自分の言葉に引き直すことはできなくてやや窮屈ではある。要約していると文体の癖とかもインストールできて楽しい。

 

調子が出てきたからこのまま公募の方の文章も書こうかとふと思ったけど、元旦からメール送るのも宜しくないという倫理観により断念した。個人的メッセージを送らなかったのもこれなのか。僕はあくまで関係者ではないもの。このフレーズを書くとき体が切なくなったがそういうものだ、納得しよう、体よ。なんだかんだ社会における関係性の振る舞いを気にする指針はあるのだよな。もはや今更という感じだし、クリスマスは悪手だったな。

 

という感じで、ふと思ったこと。僕は「何かについて書く」ということが好きなのだろうなということ。何かについて書いた自分と素朴な自分は断絶しているという考察に続く。そもそも頭で考えていることと書くことってあんまり連動していない。書くことでは嘘を付けるというからみたいな表層的な意味合いではなく、もっと根本的な溝があるような。

 

日記を書く効用には過去の自分の思考と今の自分の距離が測れるという説があったことに対する疑義はいつか書いた気がするけど、なんで、「言語化された」自分の中身がその時の中身と認識できるのかという疑問。言語化されてない中身の方が圧倒的に多いのに。

 

ここで、最新のnoteのモニュメント=証明という説が浮かぶ。ここを基準とすると、過去の自分がその時の自分として残したかった記録を未来の自分から見てその時の自分とする。全部覚えていられないのは当然としても、なんだかこの日記論って過去を侮辱していないかとさえ思う。

 

たしかに証明の概念って、ある物事が真実(現実)であるということを他の物から推論して確かにそうだったとするもので、常に過去に向いたものではある。裁判だと心証形成とか言う、過去に何かあったとするのが正しいとする動き。ただ、現在進行形の記録の言語化として、言葉を取捨選択するし、なんならちょっと虚飾も加えるかもしれないし、何を記録するかどうか自体が記録の前に居る記録を決める自分の動きでは。

 

僕は自分の過去の日記は編集用に前日分しか読み返さない(昨日は誤字がひどかった)し、日記に自分の中身が全開示されているとも思っていない。きっと姿勢の違いなのだろうけど、記録の公開には自分を伝達したいという動機があり、社会に観測される可能性を前提とした社会的自分観なのだろう。僕もこれで書いていた時期はある。同じような根がある人を見つけるレーダーみたいな。

 

そもそも論だけど、僕は思考に言語を用いてないから、言語を扱うのがとても苦手なのがやっと分かった次第。どれだけ言語化しても自分の脳とか知覚の動きの一部でしかなく、これが自分と同一視できることが分からない。嘘は言わないことくらいしかできないのでは。僕の捉え方だと、言語は自分を共通語彙にできるところにひっぱり上げるための道具であって、ほんとの中身はもっと概念とかイメージとか抽象的に世界を捉えている。もしくは印象か。印象はどれだけ言い回しを変えても1つだもんな。言い回しの丁寧さはその印象をどれだけ大事にしているのかという証左にはなるけども。

 

ここはある意味社会性を獲得するための職業訓練みたいな意味合いがあるのかもしれない。まだ全然参加できる気がしないが。

 

情報の体系化と脳の情報の収集は全然違うと思う。人間の脳は情報を体系的に想起できるようにはできないから訓練が必要。学問はほとんどそう(人文系は知らない)。素朴な脳はもっと自由で、常に何かの過去と連想している。これってきっと生きるためには必須だったのだろうな。過去の経験の結果の良しあしとの類似の今があったとき、すばやく安全か危険か参照できるように。

 

過去の出来事とか記録を忘れるのは、あえて記録が想起できるようにはしないけど無意識には残しているという意味ではよくできている。腰痛はあえてトラウマ体験を想起しないようにするためにという弊害もあるみたいだけど。

 

 

表現としての言語の効用はとても分かるし一般論としてはここが大事だと思う。ただ、僕はそういう風に言語を扱えたことがあんまりない。自分を伝えたらどうなるかの方が気になって、自分を素朴の表明はあんまりできない。自分の表明って、あくまで対象にどう捉えらたかという操作できない領域にあって、主体的なものでもないし。

 

心はどこにあるのかという命題で、間にあるというのを何処かの漫画で見たのだけど、確かに絶対的な自分はそもそもないよなと思う。感情も知覚も思考も対象がないと起こらない。別に人でなくても構わない領域。

 

争いと代名詞がたまたま繋がる。しかし、なんでチラシ画像のモニュメントは白い三角形なのだろう。人って三角形とか円との完璧な形好きよね。(広島の原爆公園にそんな建築物があったような)

 

ホモサピエンス全史で、「私たち」と「彼ら」という分類があった。まさに争いのタネみたいだなと。そういう分類によって戦争が実際あった訳だし。争いの前提には同種だけど何かが違うという、文化の切り分けがあるような。ある程度同じものが共有されていないと起こらない。ペットの犬とは争いは生まれないけど、野犬とかイノシシとか熊なら動物という同じ水準がある。

 

同一水準ということは、その水準で椅子を確保しなきゃいけない何かがあるのだろうな。命なら分かり易いけど、他の価値ではどうなんだろ。

 

何かを選なきゃいけないというのが本質な気がする。

 

争いの概念が入ってくると僕は一刻も早く退場したくなるので、あんまりしたくない。お互いの中心での対立は良いってフロムさんが言っているけど、そんなことできたこともないし。

 

では、おやすみなさい。