諦観

 

 

 

本日の心境を一言に当てるのであれば諦めだ。

 

さて。

 

好きな人は何かに反射した自分の姿を撮るのが好きなのかな、と、印象が言語化された途端、さらに、人って何かに映さないと自分のことだけは見られないんだよなという言葉が浮かぶ。カメラの持ち手の反対の手は僕が現実で見た残像からすると、そんなに気にすることもないのではとか。これも普通には言わないこと。というかそんなに実際の姿は観てないですが。髪が短くなったように見える。かわえぇなぁ←

 

こんなことを想起していると、3年前に初めて直に会ったときの、好きな人の姿ではなく自分の日記が思い出される。受付のお姉さんの映像は僕の画像フォルダには残っとらん。これによりなんで覚えられていたかも把握。予約せずに行って、予約していませんって言ったら、ぼそぼそと話し合ったのちに、予約料金にしてくれたのだった。安くなって嬉しいから印象に残っているではない。だったら最初から予約していくわ。ではなく、なんだか空気がほわほわしてたんよね。演劇愛なのかなんなのか、とても印象深い。会場の空気感も生々しく好き。おそらく予約せずに来た人の物珍しさにより覚えられていたというだけ。なんのことはない。

 

それにしても観察し過ぎかと我ながら思うけど、別に何かを見つけるためにめざとく世界を捉えている忙しい人物ではない。心中はとても穏やかに過ごしている。心は暇人。今朝某写真場で一瞬波打ってしまったのは秘密。

 

もじゃもじゃ頭の主人公の漫画はとても深くて美味しい。観察をする目とか見解はとても近いけど、やはりなんだか違う。

 

何故車の免許を取らないのかと問われた答えが、「他人を殺す可能性があるから」だった。僕は免許を持っているけど、車は持っていない。これは大阪に居る限り必要がないという理由が最上位であり、本当に必要になる田舎で住まない限り持たないだろうと思う。この主人公が語る答えも当然要素にはある。道行く車を見ていると、全くそんな可能性を考えてない人が多そうに見受けられる。用法によって人を殺しうる刃物より機能として殺しうるものなのに。この可能性なんて普通の人は当然把握していて、ただ自分は当事者になることはないという主人公補正なのかなという感じ。

 

危険物というより体の延長と認識している人は多いかもしれない。漫画では飛行機より車の方が危険なのに、飛行機事故が起こった後の方には管理体制が改善されることがおかしいのではないかとも言っていた。

 

僕は自分が死ぬだけなら良いから、歩行者が存在しない山道を運転するのであればなんなら好きだし、別に自動車を所有している人に対して嫌悪感がある訳ではない。ただ、この辺り、どういう風に収めているのだろうという感じ。まぁ、パートナーとか家族とか自分以外の人が含まれた場合、有事では車があった方が迅速に対応できるとは思う。ただ、生活の一部として使うには危険過ぎないかと思う次第。早く自動運転になれば良いな。この、人を死なせる可能性が致し方無いとできるのも何かの想像的秩序よな。便利と利潤は無関係の人より大事。

 

何のトラウマもなくこんなことを考えているなと、この漫画により表層化された。

僕にとって思索は何かを解決するためのものでない領域の方が広い。

 

やれやれ。

 

時は遡り、昨日の日記を書いた自分なのか書かれたた自分なのかに対する印象で無茶苦茶違和感がまとわりついていた。矛盾というか整合性がないというか、無理矢理押し込めている感じ。何かの表象が一方通行であることなぞないだろう。

 

どうでも良いけど、これだけ考え事していて生活上の物理は大丈夫かと思われるかもしれないけど、全然関係ない。月初めの繁忙期で滅茶苦茶案件さばいたし、早番から明日急遽中番になったからお弁当用のおかずを一品余計に作って明日の仕事終わりに備えているし。なんなら、ここがあることで生活が逆に良くなっている。

 

今後人間関係があったとしても自分の価値の保有の為とか時間つぶしの為とか相手を消費することはしない。そういえば、仕事中の雑談ってめちゃくちゃ時間つぶしになる。会話が止まらない人たちは時間を通り過ぎるためにお互いを消費しているのだと思う。

 

なんだっけ。そうそう違和感。書くという行為に対して、表現者ではないということを強調して書きたいという目的はないとしていたけど、別に表現者のように自己の表現物を自己価値にできなくても、意志とか目的ではなく書かずには居られない衝動は認めて良いやんって。

 

厳密に言うと、書きたいというより、書いている最中の頭の動きを求めている。自分は非言語人だから、眼差しとしての存在は自分が把握できるものではないから、言語化していく過程の中だけで自己観測ができるということ。岩石を見て、そうなりたい形を見つけて彫刻する芸術家が居たけど、自分を彫刻するであれば完全な表現物だろうよ。

 

眼差しの話。僕は一方的に見る人であれば言いと言っていたけど、これって眼差されれることの恐怖からきている。僕の表象を自分に都合の為に消費する目。だから人間関係は嫌なのだけど、世界に自分が開いていないことは確か。

 

でも、僕が世界に対して開いたとき、もじゃもじゃ主人公みたいになりうる。人の目って自分を糾弾するように見えるのが一般感覚ではないかという危惧。これは自分の眼差しが自分の為にあるということで、あえて他人を注視するのであれば、美点というより弱点とかつけ入るとっかかりを探っている。あとは汚点。僕の記録上、自分とは無関係で良い人が居たという表現であって、見たのではなく見えたことがほとんど。新刊枠でも、失礼にならないように目を走らせたみたいなフレーズがあって、他人をまじまじと見ることって何か禁忌な意味合いがある。日本語でいえば覗くとか。

 

僕は割と他人の美点を覗く。エレベーターで誰が開ボタンを押すとか。これって誰も押さなければ僕が押すし、僕が押すより早く押したい人がいれば僕はしないから、僕にとって都合の良い人が美点を持っているとはならない。性質が気になるだけ。

 

仕事場でのあいさつとか譲りとか別に誰でもやるしやった方が良い。けど、僕が見るのはどうでも良い人に対する所作。全く返ってこない人に対してどう振る舞うか。仕事場で穏やかな人物であるなんて当たり前の社交だし、むしろコンビニとか居酒屋の店員をどう扱うのかのほうが本当。

 

フロムさんも言っているけど、大事なところだけ大事にするなんてことはできない。

これは断言で良い。自分にしか価値を置いていない人は他人を愛せないし、利他とか奉仕を自己確認にしていても不十分だし、交友関係がないと人は孤独だって思う人はいつまでも孤独だ。

 

こんなの世界に開いて良いのか。まぁ考えるとして、もっと世界に対しておどおどしなくなるようにはなるべき。部外者だけど、部外者であることにしり込みする必要はない。もっとずかずかしよう。

 

どうでも良いけど、好きな人って現実に会った記憶だとめちゃくちゃ目線を合わせてくれたのだけど、記録だと人を眺める人だったからちょっと食い違い。今度はちゃんと目線だけは合わします。仕事だからやっている笑顔なのか腹の中からの笑顔なのかは判別できないけど、僕の印象は少し別のところにある。いや、ないだろうと思うから言語化はしない。

 

諦めるというのは、自分と世界に妥協することを諦めたということ。

 

 

おしまい。