媒体とコンテンツ

 

 

読み返して思ったがやはり当日の文字化は荒くて薄いな。日常パートをこれ以上精緻化するつもりもないが。

 

本日は休養日。もも裏が筋肉痛になっていた。正しい筋肉を使って歩いていたらしい。砂利がじゃりじゃり主張してくるものだからしばらく下を向きながら歩き、移動していく視界の中に果たして何粒あるのだろうと考えていたのを思い出す。感涙しつつ漫画を読んだり、雨の中衝動的にカルピスを買いに行ったり。

 

どうでも良いが、書く行為はどちらかというと無意識に属するものかもしれない。編集すれば意識化だが。

 

進撃の巨人」のファイナルシーズンを1話ずつ見ている。エンディングテーマが安藤裕子で、また切なさが。良く歌っていた。「のうぜんかつら」とか。どういうアレだこれ。整理して進めということかなんなのか。ということで、本日のBGMは決まった。

 

さておき。

 

昨日書いてなかった読み切った文庫本。米澤さんは、アニメの「氷菓」から知ったが、ミステリーの皮を被った「個々人」の合理性というか行動規範がテーマになっているように読める。人間の薄皮を剥いだところに在るその人。氷菓のほーたろーも無気力に見えるが行動規範は割としっかりしているし、ヒロインも自己の興味を規範にしている。今回読んだ「犬はどこだ」も、なかなか人間がえぐかった。ネットストーカーが現実まで入り込んできて、法律の規範にバレないように現実から排除(殺害)するという剣呑さだが、なんとなく分からなくもない。ちょっと心が痛いというか、僕は大丈夫かという再考した部分は省略し、本気で人が何かしようとしたとき、外在的な枠はあまり問題にはならないよなということ。僕はそこまで物理界に重きを置いてないから、あえて飛び越えるようなことはしないが、気持ちは分かるという意味。

 

割と京都に行くとき選びがちな作者である。昨日の帰り際、読みながら別の本が思い出された。これも人当たりは良いが中身はサイコパスみたいな人が出てきている。

 

物理界に繋がる夢界。家族で車に乗っていたら、父親の運転がめちゃくちゃ雑になってきて、何回か崖から落ちつつ運転は続いている。助手席に座る母親は止めようとするのだが、そのうち「みんなで〇ねるならそれで良い」と恍惚状態に至ってしまい、最終的に絶対助からない高さから回転しながら落ちる。姉は見えなかったが、後部座席の隣に妹が座っていて、この極限状態で僕は何故か妹の頭を撫でた。なんでそんなことするのだと聞かれたが、遠心力により感覚がわやくちゃで答えられない。そうして、あぁ〇ぬんだなと思いつつ、ちょっと安心している自分が居た。やっとこの意識も終われるみたいな。結局生き残って夢は終わるのだが、目が覚めて、父親は生き残ってないだよなと醒める。

 

自分が生きることと誰かと生きることは全然違うことなのだろうな。父親は僕と18年間生きたが、僕はちっともこの人が分からなかったし、恋人関係だった人達もそう。物理界における一緒に生きる人って当たり前になるから自分の生活に含まれるのか。いや、当たり前にしない世界線もあるのかもしれない。経験がないからなんとも言えないが。

 

別に悲観的になっている訳でもない。むしろ、本を読んでいるときにちゃんと書かれていることと具体的に対話できるようになっている思考回路に気付き、同じ読み物でもなんで今までこんなにスルーできてきたのかが不思議で仕方なくなってくる。別にあえて関係まで拡張する気はないが、僕の世界への参加の仕方はこれだったのだなというだけ。「考える」の定義も随分と変わってきた。

 

1つの手法としては、考えるは自分の精神世界に空白をつくるための挙動。常に俯瞰的に考える自分が居る。このやり方であれば、考えれば考えるほど身軽になれる。

 

まぁ良いとして。

 

今読んでいる学問で言うとトップ3は、法学、メディア論、行動経済学行動経済学は、行動の原因がマクロでどこから来ているのかを探る学問で、外在的な情報に行動が容易く左右されてしまうというのがよく分かる。かといって、外在的情報に影響された自分の行動が意志的なものではないかというときっとそうでもない。意志はまるっとこういうものも内包するとても器が大きい言葉。影響値を分析しなくても「自分が選択した」という意識が大事。

 

行動経済学で面白いのは、古典的経済学は人間が完全な合理性を有しているとするのだが、「合理性」の定義がかなり雑い。合理性の説明として、裁判ではもっともらしいという意味で用いていると雑さをアピールしつつ、効用を最大化するのが合理性であるとする。ただ、効用の中身が定かではない。でも社会現象を一定の水準で記述できたという意味では成果か。

 

僕は法学寄りだから、裁判が用いている合理性のもっともらしいは結論であって、本質は利益較量にあると言っておきたい。天秤に載せるためにはまず天秤を作らないといけないし、どういう風に天秤を作ったら公衆に納得されるかという話。昔は確かに雑かったと思う。裁判所の判断は正しいという規範があったから説明をする必要があまりなかった。この時に用いられた言い回しは合理性ではなく相当性だが。個人が考える合理は自分が天秤だから外に対して特に説得力がある訳ではない。論理的思考には自分を天秤として精緻化させるという向きもあるのかもしれないが、僕はあんまり信じていない。判断は今までの自分の集積の結果であり、天秤どうこうは結果に対する理由付けに過ぎないという立場。先の判断のために自分の天秤を再構築するなら分かるが。

 

メディア論。

 

ほんと面白い。どきどきする。人間の三大発明が何かという知識はどうでも良いとして、マルクハーンさんは印刷技術がメディアとして社会に何をもたらしたかということを研究したらしい。「グーテンベルクの銀河系」も丸善にあったのだよな。さらに高価な7800円。こういうのを自由に買えるようになるためには稼がないとなとふと思う。

 

ともあれ。

 

グーテンベルクが発明された活版印刷が人間をどう作り変えたかというと、時間と空間が同質化(均一化)したとか。ここで僕が思ったのは、この文の意味よりも、この領域ではこういうこと考えていいのだ、だった。僕の考察だと時空の感覚は固有なのだが、均一化はここから来ていたのかって。

 

文章は音読するものだったという観念も面白い。目よりも声とか耳に重きが置かれていた社会がかつてあった。文字がいくらでも複製できるようになったことにより、情報として一過性だった聴覚が、永続性を持つ視覚に置き換わる。伝達メディアの発展。

 

あと面白いのが、メディアとはメッセージだという文脈で、媒体と内容(コンテンツ)は常に分離しているという話。文字化されたメディアの内容は発話だし、写真というメディアの中身は現実の瞬間だし。最高なのは、もともと発話と文字は完全な別物なのに、一致していると思い込むというところ。言葉というメディアが遣われているのは共通項だが、もともと全然違うというのは、いつか、話すように書けないし、書くようには話せないと書いたはず。この界隈の学を習得していない素朴な自分が学問の見地に辿り着いているというのは楽しい。

 

これでいうと、考えることは言葉でしかできないというのもメディア論的には嘘くさくなってくる。言葉はメディアの一種で、メディアは媒体でしかなく、内容は完全に別のところにあるということ。まぁメディアは人間を作り変えるものだから、そこに依拠してしまう精神性も分からなくはないが、やっぱり文字化されたメディアとしての本人よりもっと前に内容は在ると思わずにはいられない。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

書ききれない

 

 

 

そろそろ穴ぐらから出るか。と、ほぼ満月の月を眺めながら帰る。文字化できる情報が多い1日。

 

 

「他人の中に在る自分を評価するのは自分ではなく相手である」ということを考えながら、カップ麺と梅干ご飯の朝食。ちなみに明日もカップ麺。本日は鴨そばで明日は肉うどん。どうもラーメン派ではないらしい。12時まで二度寝して、5問だけ解いて出発。正直、一瞬迷ったが、こういうところの行動力というのは我ながら凄い。外からの動機付けが全くかかってない行動こそ、素朴な自分の行動力としている。外からの誘導であれば隷属するだけでなんとでもなる。抵抗しつつ従うことに何かやりがいのような価値というかメリットがあるのかもしれないが、僕にはそんな概念はない。

 

日記の醍醐味は時系列通りに書かなくても良いということにある。別にリアルタイムで呟いている訳ではないのだから、1日を思い通りに編集しながら書くことができる。買ってきた2冊のうちの1冊は、刑法(総論)の考え方・楽しみ方という本。刑法自体がどういう学問か法学を全くかじっていない人に説明するのは難しいが、各論はどういった行為が犯罪にあたるかをあくせく理屈付ける学問。素朴な人は犯罪は悪いことだから処罰されて当たり前という認識で問題ないが、国家が個人を罰するためには納得される理由が要る。国家が悪いことだから当たり前だろうってざっくり処罰できるのは独裁でしかない。個人レベルでは感覚的・反射的な独裁で良いが、国家レベルではやってはいけない。

 

で、総論はもっと抽象的な水準の学問で、そもそも何故国家が刑罰権を独占しているかという理由から考えていくもの。細かくなっていくから省略するが、行動心理学からの引用で、人はサンクション(制裁)による行動規制があると、内的動機付けが失われるというフレーズが書きたかっただけ。これを進めていくと、やらされている、やらなければいけない、やった方が良い、みたいな動機って、当人を自身で捉えきれてないのではないかという疑問が生じてくる。僕はこの意味での人の厚意みたいなものは見えてもカウントしないかもしれない。僕が見ているのは、例えば譲る外的動機が一切ないのに譲る挙動とか、当人にとって全く対価がない(と見える)のに挙動する存在。

 

 

さておき。

 

眉毛を整え、髭を剃り、髪をセットしてからスーツをクリーニングに出しつつ、通例のように御堂筋線に乗る前に文庫本を一冊購入して読みながら京阪に乗る。「犬はどこだ」

 

行きはあまり読み進められなかった。景色の方が美味しくて。昨日の自然美と人工美で言うと、僕は景観として整えられた人工美としての桜より、車窓から流れる景色にある花々とか、あ、イタドリ生えてきているわとか、散歩している人は何を考えながら歩いているのだろうと想う方が楽しい。遠くに見える山に点々と見えるピンクはとても愛おしくにまにましてしまった。

 

ふと、移動する物体に乗っているときの思考(意識)はよく回るなと思う。意識は肉体から外在なのか内在なのかという論争があったらしいが、これは自分が歩いている時とも近いと思うと、移動している最中に限りちょっと外在みたいなものなのかもしれない。もう少し現実的というか、科学的に解釈するのであれば、視覚が受け取った画像データを過去のと照合しまくっているからそれにまつわる思考が回る。10回も乗っていないと思うが、ここにはこれがあるって照合できている。

 

過去との照合でいうと、たまたま一番長く過ごした恋人さんのカタチとよく似ている人がいて、ちらちら見てしまった。位置関係でいうと、進行方向に向いた間に通路がある二席ずつの配置で、僕は右端、その人は1列前の左から二番目。何やらスマホをずっといじっていて、どうやら、何かの短めの動画を観ているらしい。その手の小ささがとても近いのと、耳のカタチ。爪は赤かった。僕と住んでいるときも、化粧の動画とか見ていたなぁとか思い出しつつ、いや、ベリーショートの頭のカタチを見ると、当人はもう少し大きかったはず、降りていく歩き方も違う気がすると、完全な一致はできなかった。そもそも関東圏に生息しているだろう当人が、ここに居る筈がないという観念は別れた後のその後を知らないから、可能性としてはありけり。

 

ここでの発見は、まだこの面影は僕を切なくさせるのだろうなということがまず1つ。もともと切なげな心持ちだったというのもあるが。もう1つは、かなり一緒に過ごしていっぱい触ったのに、手のカタチ、耳のカタチが完全一致されるように残っていないということ。まぁ、自分の手の画像が他の99人の同じような手と混在されて、さぁあなたの手はどれだって聞かれても、自分の手は分からないだろうなと思うと、まぁそんなものか。特徴的な黒子とかがあればまだしも、見ているだけのものは残らない。

 

これなら、利き文章の方が精度高い。同じことについて書いた文字数も同じ文章で自分の言葉が他の99人と混在されても自分が書いた文章なら絶対間違わないし、人の文章もある程度読んでいれば分かるはず。では、人の存在とは。

ということを考えながらやっと到着。

 

出町柳からゆっくり南下しようと目論んだ。「同志社」という文字が景色にたくさんあって、ふと、大阪ではなく、京都の大学に入ったら良かったなと思った。でも同志社は中学校時代好きだった女の子が高校も同じで指定校推薦で行ったところだからなぁ、しかし京大に行けるような頭もない。ちなみに僕はこの女の子(今や女性)と地元の飲み会の時になんやかんや接吻をした、させられたというか。その時の発言も頭空っぽみたいなことを言っていたように再現されるのだが、僕が惹かれたのはもっと闇の部分だったような気がする。もうだいぶ遠いので定かではない。今は地元に戻っているようだがどうなのだろう。ちゃんと自分で生きているのかな。

 

頭空っぽは別に悪い意味ではない。社会とか空気に従って人生を決められるということ。なんで駄目だったんだろう。そんな性質を中学生当時に思っていた訳でもない。狭い社会の中ではトップクラスに可愛かったから、思春期ではこんなもの。可愛いの概念は、客観的な可愛さではなく、なんで僕にとって可愛く見えるのかということに変わっている。客観的な可愛さは接したいには連動しない。

 

戻ってきて。

 

芸術会館にご挨拶。中に入るまではしない。そうして目的地に入る。春の顔は盛況で人は多いが、雑多にならないくらいの広さがあってとても楽な場所。ひたすら歩く。ソメイヨシノの煌びやかさを皆見ているが、僕は山桜の渋さが好ましい。四葉のクローバーを探している人、野球をしている少年たち、飲み会。歩いていたら道に迷って、最南端から出るつもりが最北端に辿り着いてしまう。御苑をまるっと徒歩で一周。

 

してみて思ったが、人の空間認識って、自分の移動可能性を前提としているなということ。車とか電車とか今はいっぱい自分を外化する手法はあるが、やはり基本は自分の肉体がどれだけ動けるか。まるっと2時間くらい歩きっぱなしだったが、全然堪えなかった。

 

そうして、鴨川を通って丸善に行ったのだが、人が満載。お酒飲んでなくても酔う。ソーシャルディスタンスは、プライベートディスタンスには適応されないらしが、プライベートの関係のその人もソーシャルで過ごしていると思うのだが。

 

丸善での収穫は、最初に書いていた刑法と、メディア論。原著は即購入というほどに予算と釣り合わなくて、原著の人をかみ砕いた本があったからそちらにした。なかなか美味しいということは後にして。

 

コーランを探しに岩波文庫棚に行ったら、滅茶苦茶呼ばれて困った。一番主張してきたのが「いきの構造」で、これ買ったらダメなやつ。諸子百家の諸々も呼んできて、なんでもあるというのはよろしくないなと思い、この枠はやめにした。ちゃんとした場で選ばれに来いというスタンス。

 

本が呼んでくるという思想は、本は選ぶものだという思想の人には分からない境地だろう。ただ、これって、別に大した違いはなく、基準を意識にするか無意識にするかでしかない、

 

で、メディアの話。

 

メディア論を展開したのはマルクハーンという1人の天才らしい。共有することの充足とか、共有されない不安観から生まれたのがメディアなのかという暫定。自分固有の見解なんて、現実化されないと他の人には分からない。

 

そういえば、表現の自由を保護する根拠に「思想の自由市場」というのがあった。言語で発信された思想が公共空間にあることによって、より良き認識に辿りつくということらしいが、とても胡散臭い。誰しも自分が認められるかどうかで、自分の認識よりより良いものに塗り替えることなんてできない。市場=より良きものが選ばれるみたいな水準には至らないだろうに。

 

読み切った文庫本の話もあったが、どうやらここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

夢がひたすら永い。実家をモチーフにした催しものというか、お祭りがあった。外観よりも中は随分大きくて、銭湯みたいなスペースもあったり実際にはない小部屋のスペースもあったり、混沌としている。知っている人とか知らない人とかたくさんの人が出てきた。どういう情報整理だろう。次のシーンは職場の上司が出てきて、食べ歩きみたいなことをしていた。全然知らない土地で、そこでは上司は飲食店のオーナーで、「山しずか」という名前だった。夢の中に出てくる文字をこっちに文字化できたのは初めてかもしれない。文字を一番意識して読んでいるのに、夢からは全然持ち帰ってこられない不思議。過去の整理でもなくなってきている。

 

別に心地よいとは思わないが、何が展開されているのかという意味では楽しい。

 

さておき。

 

本格的に世界の色が多くなってきたから、ほんとにちょっと遠出しようかと思った。休憩時間にユニクロに行き、春っぽいリネンシャツと薄手のパーカーを買う。弁当も作ろうかと思ったが、きっとそこまでの時間はない。コーランも手に入るだろうし、一石二鳥。

 

この時勢にどうか、という文脈はあんまり関係ない。人に会う訳でもなく、単に電車に乗って公園を散歩しに行くだけで、外食もする気はない。今でも会ってみたい人は1人だけいるが、この人は会えない人だからカウントされない。

 

そういえば、昨日、母親から着信があって折り返した。まぁ心配されているのは分かるのは別に良い。ただ、完全に伝達メディアに汚染されている感じがある。自分は自粛しているのに、自由に動いている人への不満が、感染した個人がどうのではなく、いじめみたいな領域になっている。ざまぁ見ろなんて主観では思っているなんて決して言わないだろうが、なんで自粛しなかったのだって非難が先に来る。わが身に降りかからないことが前提。まさに公衆に監視される監獄的な社会。

 

こういう感覚も分からなくはないのだが、僕はどちらかというと、当人が主張している思想と矛盾していることに非難が向いてしまう傾向がある。言葉は確かに1つの事実だが。まぁ良いや。

 

切り替え大事。

 

BGMで流している歌詞に、「大人になると生き方が雑になった」みたいなフレーズがあって、僕は逆行しているから気付いたのだが、大人の定義の中には、知らないものは知らないものとして流してしまうという、スルースキルがある。

 

たしかに世界は大人になればなるほど拡がるが、それがどう構築されているのかなんて気にしている暇はないとされる。暇は在るものではなく作るものであるし、僕は自分が気になったとっかかりを見落とさないように意識している。かなり無駄な労力と思わせて、頭の中の話だし、なんなら事務処理能力の向上に繋がらなくもないから、現実的な効用もある。

 

という感じで、「人類と哲学」の2周目。人に監視されるところからAIに監視されるようになったのが現代だという冒頭。ところで、「AI」って何の略だったかということをスルーしない。和訳の人工知能ということは知っていて、知能=intelligenceというはすぐ思い付いた。しかし、人工ってなんだっけというしばらく他の本を読みながら考えて、artificialだったかとたどり着く。

 

ここまでだと単なる知識だが、連想。対義語の国語のテストで、自然の反対は人工だったことから引っ張ってきて、art=芸術ってもともと自然美に対する人工美だったのかなと思いつく。造花とか庭園とかまさにそんな感じ。人は自然に対抗するために芸術を生み出したと考えると、めっちゃ意識しているよなと思う。黄金比も自然から持ってきているし。

 

閑話休題

 

来週から、職場で席替えになる。首脳陣の意図はだいたい透けているのだが、上司のもう一人の女性と仲良くさせるために、雑談ゾーンに配置された。もしくは雑談をあんまりさせないようにとか、雑談の中で知識を吸収しろということなのか、色々と解釈はできるが、僕はこの女性の上司の発話が全然好きではない。いや本当はどうか知らないから暫定だとしても、見下し傾向にある。まぁ話してみないと分からないか。

 

もう少し観察は続いて。ねっとり話す後輩さんの挙動。仕事時間が終わった後、自分の席替え先の席を念入りに除菌シートで拭いていた。この席はもう1人の後輩さんが座っていた席なのだが、よほど生理的に受け付けなかったという説もあるが、むしろ、すげー自分のことしか考えていない人なのだろうなという解釈の方が強い。

 

ちなみに僕は念入りに自席だけ拭いた。全然綺麗好きではないから後を濁さないように。

 

こういう標準で人をスルーしない感覚はちょっと面白いな。自分のために有用な挙動としての親切心は全然暖かくないか。

 

人のことを慮っている風な語彙はちまたに溢れているが、ほんとうにそういう挙動ができるひとはなかなかない。

 

僕は自分を他者と認識している人には興味がないのかもしれない。

 

2年後に行こうかと思っているところは何年も音信文信もしていない友人の土地なのだが、たぶん覚えてくれていると思う。誰も僕のことを知らない土地の方が良いのかもしれないが、なんとなく直感してしまっている。まだ会って話せることがありそう。

 

ミクシィで、語句検索して日記を眺めている中に、スピリチュアルなのかどうかはともかく、意識の3段階みたいな話があった。潜在意識と、まどろんだ意識と、自覚的意識。

 

はい、強制終了。

 

おやすみなさい。

 

ただの人

 

 

「書物を捉えるのは孤独な脳だが、映画を捉えるのは、何千、何万の耳と目だ」

 

進んでいるのか戻っているのか、素朴な自分の感覚に傾くと時間という概念はとても不思議だ。戻っているというよりはもともと自分の感じに従って良いという気付くための時間。ずれているから、あんまり貫徹できるものではないが、まぁこれで良いのだろう。

 

客観時間、もとい季節は円環。通勤路にある田んぼが今年もそろそろピンクの絨毯を敷く。季節は巡るが、僕は巡らない。あと1回くらいしか見られないということを決めた。

 

さておき。

 

仕事で発話を扱っていると、これがどれだけ必要な概念ではないということが否応なく気付かされる。話したいとか、話すことで自分が伝えられるとか、話すこと伝えられる自分が在るという概念を持ちうるというのは一種の才能である。サッカーの漫画で、「才能とは自己証明だ」みたいな話があったが、たしかに存在証明のために何かをするということはできないなぁという感じ。

 

自己主張ができないとかそういうことではなく、中に主張したいことが何もない。主張するって、端的に言えばお互い持ち寄ってより良いものをということではなく、相手に場所を取るみたいな意味合いだと思うのだが、素朴にそういうことが思えないらしい。凪いでいるだけからかもしれない。

 

あと、自己証明。証拠とは何ぞやという法律における裁判で考えたとき、2人以上がそれを事実だと認められるために用いる情報みたいなことだろうなと考えた。法律学の本にはあまりに自明過ぎて書かれていないが。そうして、この「事実だと認められる」ようにすることが証明だとすると、自己証明とは、自分と自分以外の外とを一致させるという意味合いがあるはず。僕には証明すべき自己観みたいなものが無さげだから、自分の挙動を見た人の中に勝手に形成された僕が居てしかるべきなのだが、自己観と他人から見た自己の一致をすり合わせるために会話があるのかなとふと思った。

 

僕が常々抱いている罪悪感ってもしかしたらこの辺りにあるのかもしれない。自分自体を規定されうるものとしていないから、別に幸せである必要も物的満足を得る必要もなく生きていけるばつの悪さ。これだと相手の存在もまるっと受け入れることができるが、僕が受け入れるその人は、この関係上だけのそれだから、何か相手が過ごしている世界観と違う。

 

固執しないと大事ではない、なんてことはない。まぁ、こんな感じだから、飽きられたら慣性に従わずきちっと切り替えなきゃなきゃとは思う。吹っ切れることと諦めることはとても似ている。

 

僕の自己証明は、書物を読む孤独な脳で完結できるから何か別の人を要したりしない。寂しいとも思わない。なんなら現実的な関係より存在的に濃厚接触していると思うし。ただの近い他者なぞ要らない。

 

ともあれ。

 

世界文化史。

 

諸子百家も読まなきゃいけないなと思う中国文化史。孔子の「仁」の観念が面白いというか、時空を隔てても同じことを考える人が居るのだろうなというシンクロニシティ。曰く「愛」であり、他人を自分と同じように評価したり扱ったりすること。これって当たり前だろうなんて思える人はきっと全くできていない。性善説とか性悪説とか中庸とか、諸々一種の思想の「型」なのだろうなと思う。自分と一致するものを読み求めている訳ではないから、この普遍的な類型はなんなのだろうなと考える。

 

メディア論は、本格的な専門書が読みたくなってきた。文字メディアから技術メディアを経て、今は伝達メディアになっているという話はよく分かる。

 

伝達メディアは、テレビとラジオで、現時点では古いと思うが未だ固執している人も居るのも分かる。僕のテレビのイメージは20年くらい前の、テレビを見ていないと教室の輪に入れないみたいな文脈なのだが、職場でも感染がどうのこうのという話題の輪を作っているところを見ると、全然変わらない模様。伝達メディアと文字メディアの違いは、特別に頭を使わなくても勝手に入ってくるし、他者と共有できるということ。確かに五官(誤字ではない)の中の目と耳はかなり無意識的に世界を採り入れられるし。テレビを流していないと世界と繋がっていないという観念も分からなくはないが、ほんとにそんなことに時間をつかっていて良いのかなとは思わなくもない。

 

ここからさらに進んで、芸術メディアという一回性の芸術を複製できるようになる発明。冒頭のはこれなのだが、映画という何回でも再生できる芸術ができるようになったのは技術の発展ありき。音楽ももともとは一回性のものだったのだろうな。

 

もっと進んで、こういう複製できる芸術メディアが国民の思想形成に使われたというのがなるほどなと思う。勧善懲悪とかダークヒーローとか、否応なく価値観、ひいては世界観を誘導する。

 

カントは、世界を認識する前提には個人の概念があるという図式を提唱したのだが、現代はこの世界を捉える概念がメディアになっているのもとても分かる。自身で自分の概念を考え抜かなくても世界観を誘導してくれるメディアがいっぱいある。

 

僕はメディアから自分を変化させることは厭わないが、誘導してくるものに対しては敏感に反応する。哲学者の書物って、あんまり自分が正しいとは思っていないような気がしないでもない。

 

新刊枠は、全然引っかかるものがなかったからえいやーで買ったら文庫本なのに1400円もする代物だった。星さんみたいなショートショートなのだが、企業体への怨嗟が凄い。某ちゃんねるの小話を読んでいるみたいな気分になるが、シーンがなかなか生々しい。

 

という感じで、僕は自分を証明する必要はなく生きているから、別に誰かに認めらる必要もない。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

無意識を意識する

 

 

 

お弁当を食べている公園を眺めているとそろそろ桜が見頃のような感じ。今週末遠出してみようかと思う心と、人が多いのは嫌だなと思う心と。最終的にはあまり人が居ないところに住むのだろうな。しかし、御苑の春の顔も見ておきたい。秋の顔は凄かったな。

 

さておき。

 

こんなに遊んでいて良いのかなと感じ。しかし、凡人は怠けてはいけない。働かざる者食うべからずみたいな意味での「働く」は個人的には怠けの領域に入る。何故怠けに入るのかというと、拘束時間で過ごすことはある意味全自動的だから。歩くのがとても早くなった。あと、音で位置関係をソナーするとか。怠けないというのは意識化であり、世界に対する感度のこと。

 

才能のこと。厳密に考えると僕に才能がないというよりは、才能という概念は排しても良いということなのかもしないな。「才能」という観念は「比較」と「所有」とセットだ。自分より相手が「才能」を持っているという観念とかどうでも良くなってきている。あと、自分が観測者というか、採点者に一方的になれるときにも、この人は才能があるからもっと認められるべきというような、自分が認めたものは世界が認めるべきものだという相対性が読める。僕にとってはそれが自分にとって美味しいかどうかであって、対価を払ったから美味しく食べなきゃならないともならないし、誰かがなんの意図もなく書いている文章も美味しいのであれば等価。でも、やっぱり古典は美味しいのが多いと思う。

 

美味しいとはなんぞやとなるとなかなか難しくなってくるが、おそらく存在の摂取。では存在とはなんぞやとなってきて、、、ちょっと置いておこう。

 

やれやれ。新刊枠とポーさんを同時に読み終えたから、昼休みにブックオフとリブロに行った。ブックオフにはコーランを探しに行ったのだが、イスラム教って日本ではあんまり需要がないのだろうな、ブックオフにもリブロにもなかった。岩波文庫で文庫本があるというのは前情報として調べていて、岩波文庫自体がある程度の大型書店に行かないとないからまぁないだろうなというくらいの感覚。週末御苑に行くならついでに買おう。

 

新刊枠。とはいえ、上橋さんの処女作も30年前の本だったこと想うと、「新刊」の概念にも随分と幅がある。まぁプルーストとかトルストイに比べれば、生きている日本人作家の本は全て新刊と言って良いかもしれない。どこぞの永沢さんの、時代の淘汰を潜り抜けた本しか読む価値がないというフレーズが想起される。グレートギャッツビーの良さは未だに良く分からないが。

 

さて、本題。

 

無意識の発見の予測はおおむね当たっていて、なんだか自分が若干気持ち悪くもある。マルクスさんが発見した無意識はイデオロギーとしての、「彼らはそれを行っている、しかし、彼らはそれを知らない」。自分が何故それを行っているかにおける無自覚をカメラとしての装置と連動させた。見えているが自覚化されていないというところからの類推かな。類推ってアナロジーで良かったっけ。

 

あと、ニーチェフロイトが出てくる。ニーチェの本は置いてあるが読まず嫌いで読んでいない。道徳にはうごうごした怨嗟(ルサンチマン)が含まれているという見解なのだのだということで、だったら読んでみようかという感じもしてくる。道徳の授業を受けていて、これはきっと誰しも思うことだろうが、なんときれいごとめいているのだろうと思っていた。ほんとにその感覚を持っていて行動しているのであればまだしも、道徳的に「善きこと」だからということに依拠しての行動はとても独善的な感じがする。ニーチェが発見した無意識は社会的無意識で、アナロジーとしての技術メディアはタイプライターらしい。これはあまり食べきれていないので2周目案件。

 

そうして、フロイトが発見したのが心理的無意識でアナロジーは電話らしい。精神分析論は読もうと思った。これは、僕が考えている本心とも割と近くて、個々の心はまず無意識の領域にあって、それが、現実に顕われることで当人にとっても意識できるようになる。フロイトさんは今でいうカウンセラーみたいな人で、具体的な治療行為を通して発見したらしい。その療法が面白くて、関係上の発話という境界を取っ払った状況で、思い付いたことを全部発話で吐き出させること。

 

これって凄く理に適っていると思った。人は対話形式で発話することを自分が話していることと思い込んでいるが、どんなに会話上手な人も、一方的に聞くので自由に自分のことを話してくださいと言われて、ちゃんと話せる人はどれだけいるだろう。自分の中だけにある言葉の発見はすなわち自分への気付きであり、世界への気付きでもある。無意識の可視化。

 

言わずもがな、僕は会話形式ではなければ言葉は無尽蔵にあるらしい。

 

会話形式ではなくとも最低限の体裁は整えられている(はず)だから、発信形式ということかも。

 

ほんと食べ合わせが良い本ばかりで美味しくて困る。世界文化史では宗教ランキングが出てきた。1位がキリスト教、2位がイスラム教、3位が無宗教、という感じで、意識無意識と宗教観の繋がりがとても面白い。宗教のもともとの語源って、縛るものということらしい。神様に監視されてながら神様が作ったルール依拠して生きることで、生きること自体に対する退屈から逃れる発明品。

 

で、無神論者は、宗教の戒律として不合理な行動を嘲笑したりするのだが、無神論者は何を信奉しているかというと、民主主義ということらしい。民主主義とは何ぞやというと、議論した上での合意という建前だが、実際はそんなことはなかなかないから、縛るものが神様ではなく公衆になったくらいの意味合いでしかないように思う。国家がなんで国民を縛る暴力を独占できるのかという文脈を神様ではなく契約にしたのが民主主義観だが、自縄自縛みたいな感はある。別にどちらが優れているとかは一概には言えない。一見不合理な戒律が人生への退屈を慰撫しているなら当人は充たされているだろうし。

 

過ごしている限り、日本の法って、不文律というか、細かいグループの中で一番の権力者の恣意的ルールが最優先されるというイメージ。

 

まぁなんにせよ、何かには依拠して生きないと生きられないということ。誰かとか何処かの国よりは自由だという観念は、もしかしたらただ植え付けられた無意識なだけかもしれない。

 

そうそう、メディアの推移で、文字から映像とか技術に推移した流れを読んでいると、僕が文字メディアに偏ってしまう意味がちょっと分かった。

 

映像とか技術のメディアって、当人は受動的というか無意識でも良い。テレビはつけっぱなしで流しっぱなしでも世界を生きている感じができる。五官が直接受容する情報だから、それを通しているだけで人生が拡張したような気分になれる。要は省エネ人生。

 

こう考えていくと、文字メディアが廃れていくのも分かる。文字を読むという行為は意識しないとできない。自覚はないだろうが、自分の中にある語彙と対象の語彙を照らし合わせないといけないという煩わしさ。今やもっと楽に捉えられるメディアがいっぱいあるし、わざわざ意識が自覚されるようなメディアは使わない。読み物を感覚メディアみたいに読んでいる人達を見るとある意味凄いなと思うが、読むことが受動的なメディアなのだろうな。

 

こういう意味で言うと、書くことも自分の無意識の文字化としての発掘なのだが、受動的に書ける人もいっぱいいる。でも、書いているということは本心に近いのだろうとも読める訳で。他にいっぱい書ける可能性の中から、あえてそれを書くことを選択したのは誰なのかという意味。

 

うわ、長くなった。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

一致

 

 

 

物理的なスキンシップとか肌ざわりがセロトニンを分泌させるのが脳が認識する現実感だとすると、現実感を精神領域の存在まで拡げることにより夢の中での抱擁でもどばどば出るのでは。正面からだと顔面の破壊力でどぎまぎするため後ろから。心地良き。これができれば相手の時間も消費させない。

 

さておき。

 

ねっとり話す後輩でない方の後輩男性が本日より有給消化で退職になった。全員何事もなく過ごしていたが、個人的にはかなり恐ろしい。明日は我が身という意味でも、労働力という商品市場という意味でも。会社という領域も一種の劇場感がある。人を自分と同じような人と見なくて良い場。まぁそういう制度設計か。

 

それとは別に、何の関係もないし個人的にも話したことはないこの人の存在が無くなったことに対して、違和感というか、変な話、寂しさみたいなものを感じる。同じ物理的空間で過ごすことの問答無用の馴染み。これってよくよく考えると全然不思議なことではなく、「警戒対象」から外さないと余計に注意しないといけないということなのだろうな。人を見るという第一段階は自分にとって危険かどうかだし、危険でないと分かったあとにもっと見るのは別のエネルギーが要る。自分が相手に見られているという感覚がなくっていくのも同じような段階を経るのだろうな。全然自分のこと見てない人に自分のこと見てくれって言われてもは? となるはず。見ているのに見てくれないという文脈なら正当だ。

 

こうやって毎日毎日文字化できる「思うところ」があるのも一種の才能かもしれないが、本日は、僕は才能と呼ばれるものは一切持ち合わせていないのだろうなと思った。ここでいう才能は、公衆から認められる価値という意味ではなく、自分の中にある「誰にも譲れない何か」。能力でもなんでも良いが、まぁ何かだ。

 

エドガー・アラン・ポーのあとがきに来歴が載っていて、来歴を知ったところで中身がより読めるようになるなんてことはなく美味しくない。時代背景とは別のもの。ただ、その後に、「精霊の守り人」で有名な上橋さんの処女作「精霊の木」のあとがきを自身で書いていて、かなり美味しかった。15年越し、30年越しと段階があるも熟成感がある。こういうのが小説家としての才能なんだなと思ったのが、「物語の種」という表現とか、処女作がもともと原稿用紙540枚で、自分の中では比較的短い物語だったとか。生粋な感じ。

 

精霊の守り人」と「闇の守り人」は確か中学生の時に図書室で読んだ。それから10何年か後に文庫化されたシリーズを一気読み。シーンが生生しくて美味しい。最近、この人の核には隠された歴史みたいなものがあるのかなと思っていた(これって書いたっけ?)ら、あとがきの中にもそういうことが書かれていて読み筋としては間違ってなかったのだろうなと思う。要は野蛮人として排除された異民族の文化を見ている。文化人類学も小説の為の基盤となっているのもなかなか凄い。こういう、自分の中に物語の種がある人が小説家の才能なのだろうなと思う。

 

僕が広い意味で才能がなくて良かったのは、嫉妬しないこと。何かを読む時に自分が邪魔することがない。譲れない自分があるべきだと擬態してみたが、どうも駄目だった。だから他人から消費されまくる人生。まぁ、だから読む人になったというかなれたということなのだろう。いちいち自分の譲れないものが邪魔してきたら物語には没頭できない。

 

作品を通して現れる言葉は感想ではない。

これは譲れないものとしても良いが、読むことは誰とも闘う必要がないことだからとても自由。読んだ冊数で競うとか、財産にするとかならそうかもしれないが。

 

「人類と哲学」はマルクス資本論から社会的無意識の発見となっていて、ほんと美味しい。

 

資本論は資本主義によって人が労働力という商品としてモノ化されているのに、契約として個人の存在として扱われている倒錯をイデオロギーとして、その説明のために、「カメラ・オブスクラ」という最初の画像メディアを持ってきている。

 

曰く、こういう映像メディアによって社会的な無意識が発見されたということらしい。ただ、この先はまだ読んでいないため、独自で考えるしかない。

 

たしかに、今でも同じことだが、画像は現実的な世界の瞬間を写し取った「像」に過ぎない。この像は永続性がある程度あるし、現実にそういう瞬間があったという証拠にはなるが現実そのものではない。にもかかわらず、人はこれを現実と一致することができる。いまの現実ではないという意味では虚構に等しいにも関わらず。こういう現実とみなせるものとしての虚構が存在するという発見が、無意識で共有される何かがあるということなのではという予測。

 

虚構を共有できるものであるという連動で、写真と無意識を繋げたのは慧眼だ。もしかしたらユング集合的無意識もこの系譜なのかもしれない。

 

凄いどうでもいい僕の話なのだが、無意識の可視化という試みをここ10年くらい考えている。これって、社会的な無意識を無批判に受け入れることへのアンチだったのだっただろうな。その、さも自分だと思って譲れなくなっている見解はほんとに自分由来なのか。なんてことを思った訳ではなく、ただ、僕の中に違和感があったからというだけ。

 

この研究結果だと、自分の無意識は諸々が居る。〇にたいってふと独り言を言う奴もいるし、自分のミスに対して許せない奴も要るし、歩く時に自分の筋肉がどう動くか意識しているやつもいる。ただ、自分の素朴なものさしを社会的なものさしと連動させている奴は居なくて困る。いや、居るにはいるし圧倒的に行動化はされるのだが、ほんとにこんなところを基準として生きて良いのかと思う次第。

 

要は、世界に正解はないし、正解がないところを楽しめるためには、異星人性が要るのかもしれない。

 

ここまで。

 

では、おやすみなさい。

厳然

 

 

 

夢に猫が2匹出てきた。むかーし飼っていた白猫と、最近ちょくちょく映像で見ているもちもちしてる小さな猫。白猫とは当時のように添い寝をしていた。毛並みがとても美しい。スキンシップに飢えている感がなくもないが、立ち読みした本の、スキンシップがセロトニンを分泌させて幸福感や安心感や安眠のためになるみたいな意味で他の存在を用いたくないな、と思う。自分の足りない部分を埋めるためではなく、自分で十分だが、他と接するのが嬉しいみたいな。なかなかの理想論なのは知っている。

 

夢が感触的にどんどん生生しくなっているのは何故なんだろう。

 

 

さておき。

 

他に依拠しない自分の心を考えたり、考えるを考えたりする。別に昨日の自分の空虚さの話も、ある意味自己完結的な意味では楽しい人生でしかない。近くに誰も居なくても良いんだなという意味では寂しい奴だが、別に他人を蔑ろにするような奴ではない。他人が嬉しそうな姿を見るのは眼福である。

 

本心って、そんなに自覚できるものなのかという疑義。本心が現実化するためにはどうなのかはよく考えられているだろうが、個人的にそれほど統一できるものではない。ちゃんと三大欲求もあるし、心を諦めている訳でもないが、結局のところ無茶苦茶矛盾していないか。ほんとは○○したかったが、▼▼だから□□をしたというとき、○○が本心だとして良いのかという話。ほんとはから揚げ弁当を食べたかったが、実際見たところ美味しそうだったから、ハンバーグ弁当にした。いや、これって行動化した方が本心じゃないかと思う訳。本心は時系列で変わりゆくものだ、という解釈でも良いかもしれないが、こういう日常の本心ではない、思想に引き直したとき、文字化できるとしても行動化されない中身は果たして本心なのか。いやそうはならない。

 

暫定的見解としては、行動化され続けたものがより本心みたいなものなのだろうなということ。ここに至ると特に本心がなんであるかは気にされない。習慣とかの当たり前の領域で、心はもっと突発的な事象において問題とされるが、いやいやと思う。続いているものの方がよほど根深いだろうって。

 

僕が書いている行為について、内心ではどっちでも良いとしても、書き続けている事実は変わらない。これは当然誰かに読まれる可能性を認識している訳で、認識した上での行為は、わざと(=読まれたい)と解釈されても仕方がないなというところからの内心論。逆に、どれだけ本心だと文字化されても、行動化されない限り外にはそれが本心かどうかなんて分からないんだよなという観念もある。

 

本心と行動を合わせるのはとても難しい。

 

だから、人を見る時に信頼すべきは行動化された現象であるし、自分のこともそういう風に見る。

 

そういえば、考えるについて考えたことについて。この難問は一生解けない気がするのだが、情報整理を外在的にするのではなく内在的にしてみるということをやってみた。法学の択一問題って、登場人物の相関と時系列によって答えが変わるから相関図を頭の中でイメージする。事実状態は刻々と客観時間で推移していくのだが、法的評価をしなきゃならないのはある瞬間というか時点。なかなか頭を使っている気分になれる。あと、見るだけで頭が良くなる、、、という表題の本を立ち読みしてみたところ、考えるの前提には「見る」ということがあるらしい。間違い探しとか、円状にことわざが並んでいてどこから読めばいいかをなるべく早く見つけるとか。ぱらぱら読んだだけだが。

 

たしかに意識的に見ないと考える俎上にそもそも上がってこないのは分かる。この「意識的に」というので面白いのが、また別の立ち読み、いやスキンシップと同じやつだったかで、ウォーキングは健康に良いが、歩くときには意識的に歩かないといけないという部分で、意識的に歩くというのは自分の体がどう動いているかを把握しながら歩くというもの。これは考えるに含まれると思う。ここからする意識的に見ることは、何かを見ようとするではなく、自分が何を視界に捉えているかを眺めるようなところにある。桜が綺麗なのは桜を見ようとしたからではない、みたいな意味。

 

何が見えるか、とか何を見続けているのかはとても本心に近そう。本心というのか世界観というのかは定かではないが。

 

ここまで全部立ち読みかもしれない。ぱらぱら眺めているだけのものがここまで言語化される模様。

 

それでは、立ち読みでない話。

 

メディア論はほんと面白くて、鳥肌が立つくらいの読み物。書物メディアの話は昨日も書いたが、活版印刷というグーテンベルクの発明とカントの理性論への流れがなるほどなと思う。曰く、印刷技術が流通して書物としての読み物が拡がることにより「公衆」という概念が生まれ、公衆を正しく判断できる普遍的な人の能力として、「理性」という概念が発明されたとのこと。要は、公と個人の理性は連動しているということ。

 

たしかに、個人を考えるためには個人ではないものが前提とされているのは論理的に考えれば当たり前なことだが、個人的にはカントさんってもっと個人に傾注した人なのだと思っていた。でも時代背景からすると、ドイツ国民の人格レベルを上げるための文章だったらしい。まぁたしかに啓蒙精神みたいな崇高な目的がなければ、現在でも読めるような一大哲学理論を作るようなエネルギーは生まれないかという当たり前に気付く。

 

理性が日本語になったのはいつのことだろう。

 

やはり、僕は世界の事を何も知らない。

 

世界文化史はイスラームになったのだが、そういえばコーランは読んだことないなと気付いた。なんとなくこの宗教は苛烈だと思っているから疎遠していたのは自覚的だが、語源が「読むべきもの」ということだからそろそろ読まないといけない。エドガー・アラン・ポーも読み終わったし。普通の文庫本で売っているのかは知らない。

 

ちょっと考えると、法(ルール)を厳粛に考える宗教観なのかな。これは人は不自由を求めがちという素朴な感覚とも一致するから読んでみたい。女性は外では肌を隠さなきゃいけないというルールがあったような気がするし、これは日本圏からすると違和感があるが、ただ、どんなルールだって外から見れば恣意的で独善的ではある。日本のルールもよくよく見ればそういう部分はいっぱいある。

 

まぁこの前提ルールがなければもっともっと考えないといけないから、社会的な思考コストが省エネになるのは確か。僕は宗教においてはその宗教観の外に居る人をどう扱うかを問題としていて、十字軍のキリスト教もジハードのイスラームもあんまり好きではない。原始仏教は内内に向かっているから好ましくはある。

 

どうでも良い話で収めるが、僕の方言どこに行ったのだろうと思った。仕事ではいっぱい話しているし、地元のイントネーションが出てきたら懐かしいなと思うが、僕の素朴な発話って、もともと良く分からない。発話の機能を考えるとそうなってしかるべきか。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。